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カテゴリ:●宗教
【書き改め】(Rewritten article) ●宗教とは何か(What is the religion?) 英語では、こういう言い方をする。「絶壁に立て。突き落とされよ。飛び方は、それから学べ」と。 In English-speaking world they say, “Stand on the cliff. You jump from the cliff. Then you learn how to fly.” 義兄との会話は、そんな内容で始まった。つまり生ぬるい生き方をしていたのでは、真理に到達することはできない。真理に到達するためには、絶壁から飛び降りるような覚悟と緊張感が必要だ、と。 が、これに義兄がすかさず、反論した。 『浩司君、君はそう言うけど、懸命に生きても、もがいているだけで、どうにもならない人もいるんだよ。そういう人は、どうする?』と。 そこで(救い)という話になった。たとえば不治の病というのがある。今では、がんといっても、たいていのがんなら、治る。が、それでも、がんは、がん。こわい病気である。「もし、君はがんだ。余命は、あと数か月と言われたら、どうする?」と。 その人は絶壁に立たされたことになる。絶壁から飛び降りるのも結構なことだが、「それで救われるのか?」と。仮に今、私がそういう状況になったとしたら、どうだろう。私はそういう状況に耐えられるだろうか。ひとりで、自分を支えることができるだろうか。そこで私は、昨日、こう書いた。 『人は、追いつめられてはじめて、自分の力を発揮することができる。また追いつめられなければ、自分の力を発揮することはできない。中には、追いつめられると、かえってあせってしまい、何もできなくなってしまう人がいる。たとえばこの私が、そうである。大切なことは、その緊張感を忘れないことか』と。 不治の病はともかくも、私たちの生活は、こうした不安とは無縁ではいられない。常に、無数の不安が、打ち寄せる波のように襲ってくる。平和なときがあるとすれば、その波と波の間の、つかの間でしかない。だから……。 『しかし緊張感に耐えることは、容易なことではない。頭の中が混乱してしまい、まともにものを考えることすら、できなくなる。たとえば受験勉強に追われたり、借金に追われたりすると、そうなる』と。 絶壁に立たされたとき、どこに、どう救いを求めたらよいのか。『こちらが望まなくとも、絶壁に立たされることがある。しかも想像を絶するほど過酷な絶壁に、である。そういうときは、どうしたらよいのか……』ということで、少し話題がそれたが、宗教の話になった。 『宗教に身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。その理由がわからないまま、その人を責めても意味はない。批判するなどということは、もってのほか。そっとしておいてやることこそ、思いやりというもの』と。 これは私が今まで書いてきたことだが、宗教があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、宗教がある。Y市でキリスト教会の牧師の助手をしている友人が、こう話してくれたことがある。 「教会へ来るような人は、みな、何らかの問題をかかえている」と。 で、やがて「宗教にもいろいろありますからねえ」という話になった。 『ところで世の中には、「?」と思われるような宗教(?)も、ないわけではない。たとえば「合格祈願」や「商売繁盛」を、売り物にする宗教である。それを宗教と言ってよいかどうかは、わからないが、この日本では、「宗教法人」として登録されている。義兄は、こう言った。「そんなことに力を貸すような神様はいない」と。私も、同感である。 火の中に栗があり、それがほしかったら、自分で取る。火が熱かったら、知恵を働かす。棒か何かで、取る。祈っても、念じても、ムダ』と。 しかしこれは私という(強者)の論理でしかない。私は、今のところ、まだ健康だ。ほどほどの幸福感に包まれている。が、強者の論理だけでものを考えてはいけない。それを義兄は指摘した。 『そんな話をすると、義兄がこう言った。「強い人は、それでいい」「しかし世の中には、もがいても、もがいても、どうにもならない人がいる」「毎日が、挫折の繰りかえし」「そういう人は、どこに救いを求めればいいのか」と。 ひとつの例が、「孤独」である。仏教の世界にも、「愛離別苦」というのがある。「四苦八苦」のひとつである。 愛する人に先立たれた人の苦しみや悲しみは、それを経験したものでないとわからない。いくら渦中の栗は、自分で取れと言われても、どうやって取ったらよいのか。どうやってその孤独と戦えばよいのか。「挫折」というより、それは「絶望」に近い』と。 同じ紙を見ても、表から見た紙と、裏から見た紙が、まるでちがうということは、よくある。何かの印刷がしてあれば、なおさらである。「絶壁」といっても、強者にとっての絶壁と、弱者にとっての絶壁は、まるでちがう。強者は、そのまま飛び降りればよい。が、弱者は、そんなことをすることはできない。その(力)さえない。 私は強者の論理だけで、ものを考えていた。で、こう書いた。 『私はまだそれほどまでの挫折を味わったことはない。ないが、薄い氷のすぐ下には、それがあるのを、知っている。毎日、その薄い氷の上を歩いているようなもの。どこかでその氷が割れれば、私も、そのままその下に落ちていく。 こうした不安感とは、どうやって戦えば、よいのか。はたして、自分の力だけで、それと戦うことはできるのか。絶壁というには、あまりにも過酷。飛び方を覚えろとは言うが、飛ぶことさえあきらめてしまうかもしれない』と。 ……しかし、このあたりから、自分の考えが、まとまらなくなってきた。将棋にたとえるなら、つぎの一手がわからなくなってきた。文章が支離滅裂になったのは、そのためかもしれない。 が、こんなことは言える。 絶壁に立たされる前に、その準備をしておくことは可能である。いきなり絶壁に立たされれば、だれだってとまどう。たとえばある日突然、がんの宣告を受けたら、だれだって、狼狽(ろうばい)する。その心の準備をするために、「愛」があり、「慈悲」があり、「仁」がある。 『そこで自分を支えるために、キリスト教の世界では、「愛」という言葉を使う。仏教の世界では、「慈悲」という言葉を使う。儒教の世界でいう、「仁」も、似たような意味と考えてよい。 そこで自分を超えたところに、自分をつないでいく。その結果として、「私」という自分を救済する。このことは、その逆の人を想像してみれば、わかる』と。 愛にせよ慈悲にせよ、さらに仁にせよ、それは与えられるものではなく、与えるものである。その一例として、1人の男の話を書いた。 『昔、私の近くに、こんな人がいた。ことあるごとに私の家にやってきては、「私は、○○万円儲けた」「私はこの地域でも、最高額の納税をしている」「今度、○○に、土地を買った」と。 その人は、「だから私は偉い」というようなことを言いたかったのかもしれない。態度は大きく、横柄だった。しかし私は子どもながらに、こう思った。「だからといって、それがどうした?」と。 その人が、いくらかでも、私たちにお金を分けてくれたというのであれば、話は別。しかしそんな自慢話など、腸から出るガスのようなもの。言う方は楽しいかもしれないが、聞く方は、そうではない。私たちには無意味。 やがてその人は、事業に失敗。破産寸前まで、追い込まれた。が、だれも、助けなかった。あの自慢話を聞かされた人ほど、そうで、そういう人たちは、その人を陰で笑った』と。 わかりやすい例として、ここでは(お金)をあげた。しかし(お金)と、愛や慈悲、仁とは、ちがう。お金では幸福は買えないが、しかしお金がなければ、不幸になる。不幸になるとはかぎらないかもしれないが、いろいろと問題が起きてくる。そこでこう書いた。 『……というのは、お金の話だが、私たちの(孤独)についても、同じように考えることはできないだろうか。 私たちが……というより、この私がなぜ、毎日、氷の上を歩いているような気分になるかといえば、「取る」ことばかり考えて、「与える」ことを考えないからではないか。つまり自分の範囲の中だけで、「私」を考える。しかしこれではいつまでたっても、自分を超えることはできない。つまり孤独と戦うことはできない』と。 私は、人間がかかえる最大の問題は、「孤独」であると考える。あのマザーテレサも、イエスキリストのことを語りながら、そう書いている。「イエス・キリストも、乾き(=孤独)に苦しんだ」と。 で、その孤独とは何かと言えば、「だれにも愛されず、だれも愛さない」という状態をいう。もしそういう状況、それはまさに絶壁というにふさわしいものだが、そういう状況に置かれたら、どうしたらよいのか。そこで宗教の話に、もどった。 『そこで最初の話にもどる。「宗教とは何か」と。 義兄はこう言った。「どこかに合格したいと願っている人がいるなら、合格させてあげる」「どこかにお金がほしいという人がいるなら、お金を分けてあげる」「できればそうしてやりたいが、しかしそれはできない。が、常日ごろから、その人の悲しみや苦しみを、分けもってやる。それならできる」「それが自分を超えることだ」と。 つまりそれを教えるのが、「宗教」ということになる。わかりやすく言えば、絶壁から飛び降りる前に、自分の体に羽をつける。飛び方を覚える。それが「宗教だ」、と。義兄は、そう言った。私は、同意した』と。 もともとは「絶壁からとびおりる」というのは、「それだけの覚悟がなければ、真の力を発揮できない」という意味である。 その「絶壁」から話が飛んで、「宗教」の話になった。たぶんに弁解がましいが、それが支離滅裂になった理由ということになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年01月05日 18時53分52秒
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