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楽天・日記 by はやし浩司

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2008年10月12日
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カテゴリ:家族のこと


●満92歳

話は前後するが、銭湯へ行くとき、母は私をおぶってくれた。
今、横に眠っている母からは、想像もつかないことだ。
横に眠っている母は、小さく、やせこけている。
今では、手の指1本、自分で動かすことはできない。

ただ幸いなことに、本当に幸いなことに、母はただひたすら安らかな
表情で、そこに眠っている。
ほんの数年前までは、健康診断の結果を見ても、あらゆる数値が
私より健康であることを示していた。
「母ちゃんのほうが、ぼくより健康だぞ」と言って、笑わせたこともある。
大病らしい大病は、していない。
私の記憶にあるかぎり、母が病院のベッドで寝たのは、骨折したときくらい
のものだった。
それもほんの4、5年前のことだった。

もっともそれがきっかけで、体力は急速に落ちた。
その後は、ひとりで歩くのもままならなくなった。
 
92歳という年齢を考えるなら、母ほど、この年齢になるまで、健康だった
人は少ないのでは……?

持病といえば、右の耳が、ほとんど聞こえなかったこと。
「耳鳴りがひどい」と言っていたこと。
歯が弱かったこと。
しかしこの程度の病気なら、だれにでもある。
今の私も、似たようなもの。

そんなことを考えながら、母の背でゆらゆらと揺れていた私を思い出す。
私は寝たフリがうまくて、母の背ではいつも寝たフリをしていた。

●私と母

が、そのあたりから、私と母の思いでは、プツンと切れる。
私の記憶に残っている母というのは、第三者から見たような姿である。
勝手場(台所)で料理をしている母、店先で客と応対している母、
だれかと話している母、などなど。
いくら記憶の中をさぐっても、一対一で、静かに話しあっている光景が
思い浮かんでこない。

私が小学生になるころには、すでに、母は、私を理解できなくなっていたのかも
しれない。
私も、母とは会話をしなくなった。
母は権威主義的なものの考え方をする人だった。
反抗どころか、反対したり、母の意にそわないようなことを言っただけで、
こう言って怒鳴られた。
「親に向かって、何て言う!」と。

そういう点では、親意識、つまり悪玉親意識が人一倍、強かった。
私が会話をしなかったのではなく、会話にならなかった。

……と、こんな夜に、母の悪口を書くのはいやだ。

何か、ないか?
母との思い出で、何か、楽しかったことはないか?

今、酸素マスクをつけた母の横顔を見ながら、そんなことを考える。
懸命に考える。

が、どうしても思い浮かんでこない。
ただ先ほども書いたように、たとえば町内会で、キャンプをしたような
ときは楽しかった。
しかしそういうときでも、母は、第三者でしかない。
飯ごうで米を炊いている母、だれかと立ち話している母。
いつも近くにはいたが、私の心の中にまでは入ってこなかった。

どうしてだろう。
私と母の関係は、すでにそのころ切れていたのだろうか。
それとも母と子というのは、そういう関係なのだろうか。

●母の涙

時刻は、午後10時半を回っていた。
ふと物音に気づいてうしろを見ると、そこにワイフが立っていた。
「ああ、来なくてもよかったのに」と私。
ワイフは、黙ったままだった。
と、そのときワイフが、こうつぶやいた。

「お母さん、目をあいている」と。

窓側に顔を向けていたので私は気がつかなかった。
母は、左目を半開きにし、ゆっくりとまぶたの中で、目を動かしていた。

「母ちゃん、目が見えるか?」
「ぼくだぞ、浩司や」
「ほら、浩司や、水がほしいのか?」と。

たてつづけに何度も呼びかけ、枕もとにあったCDプレーヤーにスイッチを
入れた。
郡上踊りをかけた。

その間も何度も、話しかけた。
母の右目に涙がたまった。
つづいて、酸素マスクの中で、口を動かし、オーオーと泣いた。
左目からは涙が、数筋、流れ落ちた。

「つらいのか?」
「さみしいのか?」
「水だよ」と。

私はスポンジに水を湿らせ、それを口の中に入れた。

「もっと大きく、口をあけや」と。

それに応えて母は、口をもぐもぐと動かした。
私は何度も、スポンジで口を湿らせた。

「見えるのか? ぼくが見えるのか?」
「ぼくだよ、母ちゃん、ぼくだよ、浩司だよ」
「もうすぐK村へ帰れるよ。元気を出せよ」と。

しかし母の力は、つづかなかった。
やがて静かに目を閉じ、口も軽く閉じた。
私は、子どものように、涙を流した。
あふれる涙を、どうしようもなかった。

酸素マスクをつけなおす。
母の静かなあえぎが、そのマスクを曇らす。
再び、静かな夜になった。

●帰宅

私は歩いて家に帰るつもりだった。
が、ワイフが、センターの門のところに立っていた。
「ひとりで帰るからいい」と、2度、3度、ワイフの手を払いのけた。

「寒いから……」と、ワイフは言った。
「寒くない」と私は答えた。
が、遠くから人影が歩いてくるのが見えた。

私は、車に乗った。
しかし家には帰りたくなかった。
本当は、そのままいつまでも、そしてどこまでも歩きつづけたかった。


母は、なぜ泣いたのか……。
あの涙は何だったのか……。
帰るとき、そればかりを、車の中でずっと考えていた。
(10月11日、夜記)





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最終更新日  2008年10月12日 07時30分38秒
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