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カテゴリ:家族のこと
● 10月11日
++++++++++++++++++++++ ●母 今、私はセンターの中にいる。 母のベッドの横で、この原稿を書いている。 母は、酸素マスクをつけたまま、軽くあえいでいる。 何回か声をかけてみたが、反応はない。 眠ったまま。 足の先のほうがむくみ、青く、血が沈んでいる。 心臓の働きが、足の先まで、届かなくなると、そうなるそうだ。 目の前に、酸素を送るパイプから、こまかい泡が吹き出している。 その前には、血圧計や脈拍計、それに吸引器具が置いてある。 食事がとれなくなって、もう5日になる。 ドクターの判断で、点滴も止められてしまった。 今、母は、静かに、ただ静かに、その時を待っている。 ときどき酸素マスクの中から、ケッケッという喉の音が聞こえる。 そのつど「苦しいか?」と声をかける。 が、反応はない。 +++++++++++++++++++++ ●振り子 私は子どものころ、広い部屋で、振り子が大きく揺れる夢をよく見た。 暗い部屋で、その振り子が、大きく、向こう側に揺れ、そしてそのあと こちらに向かって揺れてきた。 教会にある釣鐘の中の振り子のような形をしていた。 記憶は確かではないが、私はそんな夢を、 かなり早い時期に見ていたような気がする。 5歳とか6歳ではなく、もっと早くだ。 ひょっとしたら、2歳ごろ? 1歳ごろ? 同じような夢は、かなり大きくなるまで、見た。 最近も、たまに見る。 あの夢は何なのだろう。 どんな意味があるのだろう。 ずいぶんと昔だが、あるとき私は、それを、私が胎児であったときに 見た夢ではないかと思ったことがある。 私の体が振り子となって、母の胎内で、揺れていた。 ●つい立 つぎに覚えているのは、私がつい立のある部屋で眠っている光景である。 「L型」のつい立てで、それには雑誌の切抜きなどがいっぱい、張ってあった。 私はそのつい立の中で、寝ていた。 ずっとあとになって、そのとき寝ていたふとんが、乳幼児用のものであると 知った。 青色の、おもちゃの絵の描いてあるふとんだった。 だからそのとき、私はまだ歩けない赤ん坊だったということになる。 そのつい立の上に、これもずっとあとになって知ったことだが、『クリスマス・キャロル』 の絵が張ってあった。 壁をすり抜けて、幽霊が、子どもたちのいる部屋へ入ってくる絵だった。 その光景を思い出すと、同時に、そのときの(暑さ)も思い出す。 暑い部屋だった。 多分、夏だったかもしれない。 しかし私は昭和22年の10月生まれ。 ということは、私はその絵を見ていたのは、翌年の夏ごろということになる。 計算してみると、満1歳になる前ということになる。 ときどきだれかがつい立の向こうからのぞいた。 記憶を中をさがしてみるが、黒い影で、姿がわからない。 母だったかもしれない。 あるいは、別の人だったかもしれない。 ●銭湯 ここまで書いて、私は、母におばれて銭湯に行く自分を思い出した。 まだおばれることができたのだから、2、3歳くらいのときだった かもしれない。 銭湯へ行く角のところに八百屋があって、いつもそこでミカンを1個 買ってもらった。 銭湯から出たとき、そのミカンを食べるのが、楽しみになっていた。 私は風呂は好きでもなかったが、嫌いでもなかった。 よく覚えていないが……。 そのとき母の背中で、ゆらゆらと体がゆれていたのは覚えている。 ●見回り たった今、看護士さんが、見回りにきてくれた。 母に声をかけてくれた。 「豊子さ~ん」「聞こえますか~」と。 瞬間、目が動いたらしい。 それを見て、看護士さんが、「聞こえているみたいですね」と。 つづいて、足を見て、「暖かいですね」と言ってくれた。 足が冷たくなると、あぶないのだそうだ。 で、私もさわってみたが、私には、冷たく感じた。 血圧は、70-87、脈拍数は、115。 ときどき血圧が60台にさがるという。 昨日もそうだった。 60台にまでさがると、あぶないのだそうだ。 私の知らない世界のことなので、そのつど、看護士さんの話を、 どう理解したらよいのか、迷う。 ●母のこと 母の話にもどる。 今の母からは想像もつかないほど、若いころの母は、活発で、行動派だった。 いつもシャキシャキと、あちこちを動き回っていた。 運動神経も、よかった。 自転車が並んでいる店先と、裏のほうにある台所を、いつも飛び回るようにして、 行ったり来たりしていた。 あの軽い足音が、今でもしっかりと耳に残っている。 カラカラ、カンカン、カラカラ、カンカン、と。 音の感じからして、当時は下駄を履いていたようだ。 靴の音ではない。 で、私の印象としては、母は、落ち着きのない人だったように思う。 母が、どこかでじっと座っているような姿は、記憶の中に、あまりない。 ここにも書いたように、いつも動き回っていた。 そのため、息子という私は、いつも母に、引っ張り回されていたような感じがする。 小学生のときも、中学生のときも。 耳の中に残っているのは、母が私に命令する声でしかない。 「ああ、しんせい(=ああ、しなさい)」「こう、しんせい(=こう、しなさい)」と。 そういう点では、私だけではなく、兄や姉にも、そして父に対しても、 口うるさい女性だったようだ。 ●思い出 そういう母だったからかもしれないが、私と母の思い出は、あまりない。 もちろんいっしょに遊んだとか、静かに話し合ったということもない。 母は、いつも私に命令していたし、それが私と母の関係の基本になっていた。 ただ母の在所(=郷里)の板取のK村に行くのは、好きだった。 そこは私が住んでいる町の中とはちがい、別天地だった。 ほどよい川が流れ、周囲を小高い山に囲まれていた。 私は、そのあたりに住んでいた従兄弟たちと、毎日、真っ暗になるまで、 山の中で遊んだ。 そんなわけで私にとって(故郷)というと、生まれ育ったM町というよりは、 母の在所の、板取のK村のほうを、先に思い浮かべてしまう。 母は、休みになると、そのK村のほうに、連れていってくれた。 私がせがんだせいかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年10月12日 07時31分12秒
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