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楽天・日記 by はやし浩司

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2008年10月12日
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カテゴリ:家族のこと
● 10月11日

++++++++++++++++++++++

●母

今、私はセンターの中にいる。
母のベッドの横で、この原稿を書いている。
母は、酸素マスクをつけたまま、軽くあえいでいる。
何回か声をかけてみたが、反応はない。
眠ったまま。

足の先のほうがむくみ、青く、血が沈んでいる。
心臓の働きが、足の先まで、届かなくなると、そうなるそうだ。

目の前に、酸素を送るパイプから、こまかい泡が吹き出している。
その前には、血圧計や脈拍計、それに吸引器具が置いてある。

食事がとれなくなって、もう5日になる。
ドクターの判断で、点滴も止められてしまった。
今、母は、静かに、ただ静かに、その時を待っている。

ときどき酸素マスクの中から、ケッケッという喉の音が聞こえる。
そのつど「苦しいか?」と声をかける。
が、反応はない。

+++++++++++++++++++++

●振り子

私は子どものころ、広い部屋で、振り子が大きく揺れる夢をよく見た。
暗い部屋で、その振り子が、大きく、向こう側に揺れ、そしてそのあと
こちらに向かって揺れてきた。
教会にある釣鐘の中の振り子のような形をしていた。

記憶は確かではないが、私はそんな夢を、
かなり早い時期に見ていたような気がする。
5歳とか6歳ではなく、もっと早くだ。
ひょっとしたら、2歳ごろ?
1歳ごろ?

同じような夢は、かなり大きくなるまで、見た。
最近も、たまに見る。

あの夢は何なのだろう。
どんな意味があるのだろう。
ずいぶんと昔だが、あるとき私は、それを、私が胎児であったときに
見た夢ではないかと思ったことがある。

私の体が振り子となって、母の胎内で、揺れていた。

●つい立

つぎに覚えているのは、私がつい立のある部屋で眠っている光景である。
「L型」のつい立てで、それには雑誌の切抜きなどがいっぱい、張ってあった。
私はそのつい立の中で、寝ていた。

ずっとあとになって、そのとき寝ていたふとんが、乳幼児用のものであると
知った。
青色の、おもちゃの絵の描いてあるふとんだった。
だからそのとき、私はまだ歩けない赤ん坊だったということになる。

そのつい立の上に、これもずっとあとになって知ったことだが、『クリスマス・キャロル』
の絵が張ってあった。
壁をすり抜けて、幽霊が、子どもたちのいる部屋へ入ってくる絵だった。

その光景を思い出すと、同時に、そのときの(暑さ)も思い出す。
暑い部屋だった。
多分、夏だったかもしれない。
しかし私は昭和22年の10月生まれ。
ということは、私はその絵を見ていたのは、翌年の夏ごろということになる。
計算してみると、満1歳になる前ということになる。

ときどきだれかがつい立の向こうからのぞいた。
記憶を中をさがしてみるが、黒い影で、姿がわからない。
母だったかもしれない。
あるいは、別の人だったかもしれない。

●銭湯

ここまで書いて、私は、母におばれて銭湯に行く自分を思い出した。
まだおばれることができたのだから、2、3歳くらいのときだった
かもしれない。

銭湯へ行く角のところに八百屋があって、いつもそこでミカンを1個
買ってもらった。
銭湯から出たとき、そのミカンを食べるのが、楽しみになっていた。
私は風呂は好きでもなかったが、嫌いでもなかった。
よく覚えていないが……。
そのとき母の背中で、ゆらゆらと体がゆれていたのは覚えている。

●見回り

たった今、看護士さんが、見回りにきてくれた。
母に声をかけてくれた。
「豊子さ~ん」「聞こえますか~」と。
瞬間、目が動いたらしい。
それを見て、看護士さんが、「聞こえているみたいですね」と。
つづいて、足を見て、「暖かいですね」と言ってくれた。
足が冷たくなると、あぶないのだそうだ。

で、私もさわってみたが、私には、冷たく感じた。

血圧は、70-87、脈拍数は、115。
ときどき血圧が60台にさがるという。
昨日もそうだった。
60台にまでさがると、あぶないのだそうだ。

私の知らない世界のことなので、そのつど、看護士さんの話を、
どう理解したらよいのか、迷う。

●母のこと

母の話にもどる。
今の母からは想像もつかないほど、若いころの母は、活発で、行動派だった。
いつもシャキシャキと、あちこちを動き回っていた。
運動神経も、よかった。
自転車が並んでいる店先と、裏のほうにある台所を、いつも飛び回るようにして、
行ったり来たりしていた。

あの軽い足音が、今でもしっかりと耳に残っている。
カラカラ、カンカン、カラカラ、カンカン、と。
音の感じからして、当時は下駄を履いていたようだ。
靴の音ではない。

で、私の印象としては、母は、落ち着きのない人だったように思う。
母が、どこかでじっと座っているような姿は、記憶の中に、あまりない。
ここにも書いたように、いつも動き回っていた。
そのため、息子という私は、いつも母に、引っ張り回されていたような感じがする。
小学生のときも、中学生のときも。

耳の中に残っているのは、母が私に命令する声でしかない。
「ああ、しんせい(=ああ、しなさい)」「こう、しんせい(=こう、しなさい)」と。
そういう点では、私だけではなく、兄や姉にも、そして父に対しても、
口うるさい女性だったようだ。

●思い出

そういう母だったからかもしれないが、私と母の思い出は、あまりない。
もちろんいっしょに遊んだとか、静かに話し合ったということもない。
母は、いつも私に命令していたし、それが私と母の関係の基本になっていた。

ただ母の在所(=郷里)の板取のK村に行くのは、好きだった。
そこは私が住んでいる町の中とはちがい、別天地だった。
ほどよい川が流れ、周囲を小高い山に囲まれていた。
私は、そのあたりに住んでいた従兄弟たちと、毎日、真っ暗になるまで、
山の中で遊んだ。

そんなわけで私にとって(故郷)というと、生まれ育ったM町というよりは、
母の在所の、板取のK村のほうを、先に思い浮かべてしまう。
母は、休みになると、そのK村のほうに、連れていってくれた。
私がせがんだせいかもしれない。





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最終更新日  2008年10月12日 07時31分12秒
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