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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年01月10日
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カテゴリ:日々の随筆
【われ、考える。故にわれ、あり】(I think, therefore I am.)

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思考力を失ったとき、人類はほんとうに
滅亡する。

思考するから人間は人間である。
もし思考をしなければ、人間は、
ただのサルになってしまう。

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●科学と哲学

科学が進歩したからといって、哲学が進歩するとはかぎらない。
科学の進歩と、哲学の進歩は、まったく別のもの。
しかし影響がないとは、言えない。
科学的な見方が、哲学に影響を与えるということは、ある。
たとえば最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
人間の(心の作用)まで、科学的に説明しようとしている。

では、哲学そのものは、どうだろうか?
たとえば紀元前5世紀ごろ、中国に2人の思想家がいた。
まっ先に思いついたのが、老子(紀元前5世紀)と、荘子(370~286頃BC)
である。

無為自然(むいしぜん)を説いた老子、安心立命(あんじんりつめい)を
説いた荘子。
いわば現在の自然主義の先駆け的な思想家ということになるが、では、
その後の科学の進歩ほどに、私たちが、彼らの思想を受け継ぎ、進化
させたかというと、それは疑わしい。
2500年もたった今ですら、老子や荘子の思想は、斬新で先駆性がある。
その先駆性があること自体、思想が進歩していないことを示す。

一方、科学はどうか。
科学は確かに進歩しているが、そのつど感動は、一時的なものにすぎない。
ひとつの科学が進歩するたびに、私たちは驚く。
しかししばらくすると、それが当たり前になってしまう。
あとはこの繰り返し。
つまり科学の進歩には、常にループ性がともなう。
進歩を繰り返しながら、同じところをグルグル回る。

こんな経験がある。

●絶え間ないループ状態

私は中学生のとき、はじめてカラーテレビなるものを、見た。
今から思えば、白黒テレビに、原色がついただけのカラーテレビだったが、
驚いたというよりも、あのとき受けた衝撃は、今でも忘れない。

さらに20代の中ごろ、私ははじめてパソコンなるものを、見た。
簡単なプログラムを組むと、それは画面上に、ポツポツと二次曲線を描いてみせた。
そのときは驚いたというよりも、うれしかった。

私は中学生のとき、夏休みの工作に、二次曲線自動描画器というものを考えた。
縦軸と横軸に張った糸を、プーリー(回転コマ)で動かす。
両方の糸が交わったところが、ひとつの点になる。
その点が、二次曲線を描くようにした。
で、私はその交わったところに、小さなボールを取り付けた。
ボールに縦穴と、横穴をあけ、そこに糸を通した。
手でハンドルを回すと、縦軸と横軸に張った糸が、ある一定の割合で移動し、その
ボールが動くはずだった。
しかしそのボールは、うまく動かなかった。
……というより、まったく動かなかったように記憶している。
縦軸の糸と横軸の糸が、相互にからんでしまった。

が、パソコンは、そのときの夢を実現してみせてくれた。
私はパソコンがポツポツと点を画面に描いていくのを、いつまでもじっと見つめていた。

そして今、中学生のときのカラーテレビや、20代のころのパソコンが、
インターネットに置き換わった。

このインターネットのおかげで、私は地方の都市に住むというハンディを克服する
ことができた。
そればかりか、情報を、瞬時に、世界に向けて発信することができるようになった。
しかし……。
これも科学の進歩というなら、まさに(同じこと)の繰り返し。
そのうちインターネットも、テレビのように当たり前になる。
そこで人間はさらなるモノを見つけて、それに感動するにちがいない。
またそうでないと感動しない。

つまりそれがここでいうループ性、ということになる。

●思考と情報

なぜ、こういう現象が起きるのか。
進歩しているようで、実は同じところをぐるぐる回っている。
私たちの身の回りの生活は、たしかに進化している。
豊かになっている。
たとえば写真ひとつとっても、今では瞬時、瞬時に、それを見ることができる。
見ることができばかりか、瞬時に、それを世界中に配信することができる。
携帯電話にしても、そうだ。
今では歩きながらでも、好きなところに電話をかけることができる。

その結果、私たちは、その分だけ、思考が深くなったかといえば、それはない。
その理由にひとつに、思考と情報の混同がある。

●思考と情報

思考と情報は、まったく別のものである。
幼稚園児が掛け算の九九をソラで言ったとしても、その子どもに算数の力(=
考える力)があるとは、だれも思わない。
思考には、つねにある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときの状態を、想像してみればよい。

一方、情報というのは、せんべいを食べながらでも、吸収することができる。
夜のテレビのバラエティ番組を見れば、それがわかる。
いや、番組を見ろというのではない。
そういう番組を見ている、あなた自身を見ろと言っている。

昨夜も、創作料理と称して、何人かのタレントが、珍奇な手料理を披露してみせて
いた。
ギョーザ風のオムレツ、オムレツ風のギョーザ。
そんなような料理だった。
そうした情報を吸収するのには、たいした努力はいらない。
テレビの前で寝転びながら、いっしょにゲラゲラと笑っているだけでよい。

言うなれば、現代社会というのは、まさに情報の洪水。
情報また情報が、怒涛のごとく、日々の生活の中に押し寄せてくる。
と、同時に、私たちは(考える)という習慣を放棄してしまった。
その時間さえない。
あるいは情報の多いこと、イコール、思考と錯覚してしまった。
その結果として、考える力、つまり新しい思想を生み出すということが
むずかしくなってしまった。

●モノ社会への幻想

さらにもうひとつ大きな誤解がある。
物質社会、つまりモノ社会が豊かになればなるほど、心もまた豊かになるという
誤解である。
明確に否定しておきたい。

物質、つまりモノは、人間の心をけっして豊かにはしない。
モノがあれば、便利にはなるが、それは人間の心の豊かさとは、まったくの
別物である。

たとえば旅行をするにも、今ではカーナビを頼りに、迷わず目的地に行く
ことができる。
しかしその分だけ、旅を楽しむ心が豊かになったかといえば、それはない。
大型の高級車に乗っている人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
高級マンションに住んでいる人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
つい先日、こんな経験をした。

●モノ社会

このあたりでは、第一と第三水曜日が、危険物の収集日ということになっている。
そのこともあって、昨日、私は、居間の横の部屋にあるガラクタを、ほとんど捨てた。
それはかなり勇気のいる作業だった。
2つの勇気が必要だった。
というのも、その中には、長い間、私が趣味としてきた、ラジコン飛行機も、5、6
機あったからである。

購入価格にしても、それぞれにプロポ(送信機)や、サーボ(動作用モータ)が
ついているので、1機あたり、10万円はくだらない。
そういうものを容赦なく、バリバリと破壊し、袋につめた。
これが勇気(1)。

もうひとつは、「2度とラジコン飛行機を飛ばすことはないだろう」という、
つまりは趣味との決別。
残りの人生が10年あるとしても、その10年は、別のことに使いたい。
そういう思いもあって、ラジコン飛行機と周辺機器をすべて捨てた。
これが勇気(2)。

しかしラジコン飛行機だけではない。
私の家にも、モノがあふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……。

これだけモノがあふれているのに、ではその分だけ、私は幸福になったかというと、
それはない。
そのつど満足感は味わったかもしれないが、満足感と幸福感は別。
しかもその両方とも、一時的。
せつな的。
その場だけのもの。
わかりきったことだが、モノでは、人間は幸福になれない。
つまりここに、モノ文明、つまり物質文明の限界がある。





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最終更新日  2009年01月10日 06時56分47秒
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