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カテゴリ:家族のこと
●下痢 母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。 姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。 母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。 私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。 朝の早い時刻だった。 途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。 私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。 が、この状態は、家に着いてからも同じだった。 母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。 私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。 母は、こう言った。 「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、 思ってもみなかった」と。 私も、こう言った。 「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、 思ってもみなかった」と。 その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。 その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。 やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。 ●こだわり 人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。 人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。 夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、 絹のように美しい衣をつくりあげる。 無数のドラマも、そこから生まれる。 私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。 大きなわだかまりだった。 大きなこだわりだった。 が、それがどうであれ、現実には、その母が、そこにいる。 よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。 ●優等生 1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。 5、6日に1度くらいの割合になった。 精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。 ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、 行ってくれた。 ただ、やる気は、失っていた。 あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも なかった。 ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。 春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、 それ以上のことはしなかった。 一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。 ●事故 それまでに大きな事故が、3度、重なった。 どれも発見が早かったからよかったようなもの。 もしそれぞれのばあい、発見が、あと1~2時間、遅れていたら、母は死んでいた かもしれない。 一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。 一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。 もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。 部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。 母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、 自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。 私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。 結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。 しかしそれは不可能だった。 ●センターへの申し込み このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。 入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。 重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。 だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに 足を運んだ。 が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。 これには驚いた。 私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。 で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。 義姉は、介護の会の指導員をしていた。 「今、断ると、1年先になるのよ」と。 これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの 女性は、そのセンターの園長だった。 ●入居 母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。 ……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。 私とワイフは、こう誓いあった。 「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」 「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。 しかし仕事をもっているものには、これはままならない。 面会時間と仕事の時間が重なってしまう。 それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、 母は、ひたすら眠っているだけ。 「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。 ●優等生 もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。 一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。 どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに しなければならなかった。 それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。 母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。 センターには、医療施設はなかった。 ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは ほとんど世話のかからない優等生であったこと。 冗談好きで、みなに好かれていたこと。 私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。 母は、こう言った。 「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。 それを聞いて、私は大声で笑った。 横にいたワイフも、大声で笑った。 「お前だって、役だ立たずやろが」と。 加えて、母には、持病がなかった。 毎日服用しなければならないような薬もなかった。 ●問題 親の介護で、パニックになる人もいる。 まったく平静な人もいる。 そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。 もっと言えば、「運命は受け入れる」。 運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。 しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。 運命は、気が小さく、おくびょう者。 私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。 できれば介護など、したくない。 しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。 加齢臭については、換気扇をつける。 事故については、無線のベルをもたせる。 便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの 深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。 水道管も、そこまではわせた。 ただ困ったことがひとつ、ある。 我が家にはイヌがいる。 「ハナ」という名前の猟犬である。 母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。 ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。 真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。 これについても、いろいろ工夫した。 たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。 暖房もつけっぱなしにした。 そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。 ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。 いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。 ●あんたら、鬼や それから約1年半。 母の92歳の誕生日を終えた。 といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。 嚥下障害が起きていた。 それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。 母は、それをたいへんいやがった。 ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。 郷里の言葉である。 私はその言葉を聞いて笑った。 私も子どものころ、母によくそう言われた。 母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。 「お前ら、鬼や」と。 ●他界 こうして母は、他界した。 そのときはじめて、兄が死んだ話もした。 「Jちゃん(=兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。 兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。 母の死は、安らかな死だった。 どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。 静かだった。 母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの 話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。 穏やかな顔だった。 やさしい顔だった。 顔色も、美しかった。 母ちゃん、ありがとう。 私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。 2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。 Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年05月15日 10時46分09秒
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