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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年05月15日
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カテゴリ:家族のこと


●母の孤独

一方、母の孤独については、とくに晩年、それが痛いほど、よくわかった。
母はちぎり絵に没頭したが、楽しかったから、没頭したわけではない。
何かに取りつかれたかのように没頭した。
楽しんでいるというよりは、何かから逃れるために、そうした。
私にはそれがよくわかったが、しかしどうすることもできなかった。

何度か、まわりの人たちに、「一度でいいから、私に謝罪してほしい」と伝えた
ことがある。
しかしどの人もこう言った。
「親が、子に謝るなどいうことは、あってはならない」
「親は親だから、どんな親でも、親は子に謝る必要はない」と。

親絶対教というのは、そういうのをいう。
しかし私は一度でも母が、「私が悪かった」と言ってくれれば、それで許すつもりでいた。
この小さな地球上の、そのまた小さな国で、近親者が憎しみあって、どうする?
この世に生を受けたこと自体が奇跡。
この地球上に何十億人という人たちがいるが、生涯にわたって交際する人となると、
ほんの数えるほどしかいない。

ウソではない。
私は、一度でも母が、「私が悪かった」と要ってくれれば、それを許すつもりでいた。
が、母は、そういう人ではなかった。
それができる人でもなかった。
もしそれをすれば、母は、それまでの自分に生き様を否定することになる。
母としてそれができなかった。
それも、私にはよくわかっていた。

●10年のブランク

私は母との関係を切った。
それが10年近く、つづいた。
その間、冠婚葬祭、親族会などをのぞいて、私は郷里へは戻らなかった。
お金の仕送りも止めた。

が、その間に、母はいろいろな病気を繰り返した。
骨折して入院もした。
またそれがはじまりで、そのあとは、歩くのもままならなくなった。
介護が必要となった。

母は姉の家に2年いたあと、今度は、私が引き取ることになった。
そして同じく私の家に2年いたあと、他界した。

●最後の会話

2008年、11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰りかえしていた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80~40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46~50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。





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最終更新日  2009年05月15日 10時47分05秒
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