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カテゴリ:家族のこと
●母の孤独 一方、母の孤独については、とくに晩年、それが痛いほど、よくわかった。 母はちぎり絵に没頭したが、楽しかったから、没頭したわけではない。 何かに取りつかれたかのように没頭した。 楽しんでいるというよりは、何かから逃れるために、そうした。 私にはそれがよくわかったが、しかしどうすることもできなかった。 何度か、まわりの人たちに、「一度でいいから、私に謝罪してほしい」と伝えた ことがある。 しかしどの人もこう言った。 「親が、子に謝るなどいうことは、あってはならない」 「親は親だから、どんな親でも、親は子に謝る必要はない」と。 親絶対教というのは、そういうのをいう。 しかし私は一度でも母が、「私が悪かった」と言ってくれれば、それで許すつもりでいた。 この小さな地球上の、そのまた小さな国で、近親者が憎しみあって、どうする? この世に生を受けたこと自体が奇跡。 この地球上に何十億人という人たちがいるが、生涯にわたって交際する人となると、 ほんの数えるほどしかいない。 ウソではない。 私は、一度でも母が、「私が悪かった」と要ってくれれば、それを許すつもりでいた。 が、母は、そういう人ではなかった。 それができる人でもなかった。 もしそれをすれば、母は、それまでの自分に生き様を否定することになる。 母としてそれができなかった。 それも、私にはよくわかっていた。 ●10年のブランク 私は母との関係を切った。 それが10年近く、つづいた。 その間、冠婚葬祭、親族会などをのぞいて、私は郷里へは戻らなかった。 お金の仕送りも止めた。 が、その間に、母はいろいろな病気を繰り返した。 骨折して入院もした。 またそれがはじまりで、そのあとは、歩くのもままならなくなった。 介護が必要となった。 母は姉の家に2年いたあと、今度は、私が引き取ることになった。 そして同じく私の家に2年いたあと、他界した。 ●最後の会話 2008年、11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。 ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。 宝石のように、丸く輝いていた。 私は「?」と思った。 が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。 「あら、お母さん、起きているわ」と。 母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。 私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。 「母ちゃんか、起きているのか!」と。 母は、何も答えなかった。 数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。 母の左目がやや大きく開いた。 私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の 中に私の顔を置いた。 「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」 「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。 それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、 オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。 と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。 ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。 私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。 しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。 それが私と母の最後の会話だった。 ●あごで呼吸 朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。 私は、いくつかの仕事をこなした。 「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。 私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。 が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。 「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。 私と母は、センターへそのまま向かった。 車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。 センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま 無呼吸という状態を繰りかえしていた。 「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、 あごで呼吸をなさっているでしょ」と。 私「あごで……?」 看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。 私には、静かな呼吸に見えた。 私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。 時計を見ると、午後1時だった。 ●血圧 血圧は、午前中には、80~40前後はあったという。 それが午後には、60から55へとさがっていった。 「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、 そういうことはたびたびあった。 この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。 看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。 午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。 私は言われるまま、母の手を握った。 「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。 午後5時ごろまでは、血圧は46~50前後だった。 が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。 そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。 私たちは、いろいろな話をした。 50、52、54……。 「よかった」と私は思った。 しかし「今夜が山」と、私は思った。 それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の ベッドを並べてくれた。 「今夜は、ここで寝てください」と。 見ると、ワイフがそこに立っていた。 この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。 やつれた顔から生気が消えていた。 「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。 「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。 私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ 来るから、待っていてよ」と。 私はワイフの手を引くようにして、外に出た。 家までは、車で、5分前後である。 ●急変 家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。 急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。 「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも しれません」と。 私はそのまままたセンターへ戻った。 母の部屋にかけつけた。 見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。 薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。 私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。 とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年05月15日 10時47分05秒
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