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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年05月15日
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カテゴリ:家族のこと
【私の母】(My Mother)

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私の母は、ああいう女性だったが、今さら母の批判などしても意味はない。
したくも、ない。
母は、私の母だったが、それをのぞけば、どこから見ても、ふつうの女性だった。
特別な女性ではなかった。
よい意味においても、また悪い意味においても、どこにでもいるような女性だった。
そういう母のことを、あれこれ書いても、意味はない。

ただ、どうして私の母は、ああいう女性になったかという点については、興味がある。
ずっと、それを考えてきた。
今も、考えている。

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●最後の会話

2008年、11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●男尊女卑思想

男尊女卑思想というと、男性だけがもっている女性蔑視思想と考えられがちである。
しかし女性自身が、男尊女卑思想をもっているケースも多い。
「女は家庭を守るべき」とか、「夫を助けるのが妻の仕事」と。
「男は仕事、女は家庭」とか、「子育ては女の仕事」というのでもよい。
それをそのまま受け入れてしまっている。
私の母もそうだった。

印象に残っているのは、私が高校生のときのこと。
私が何かの料理がしたくて、台所に並んだときのこと。
母は、こう言った。
「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。
ものすごい剣幕だった。
だから私は大学を卒業するまで、料理という料理を経験したことは、ほとんどなかった。

●実家意識

今から思うと母にとっての「家」は、母が嫁いできた「林家」ではなく、実家の「N家」
だった。
「林家」にいながら、いつも心、この家にあらずといった雰囲気だった。

母は、農地解放で農地の大半を没収されるまでは、その村では、1、2を争う地主だった
という。
しかしそれも終戦までの話。
母の実家は、「畑農家」と呼ばれていた。
農家にも2種類あって、「山農家」と「畑農家」。
それだけに農地解放で失った財産も、大きかった。

そのあと、戦後の「N家」は、没落の一途をたどった。
が、気位だけは、そのままだった。
母は子どものころ、その村では、「お姫様」と呼ばれていた。
13人兄弟の中の長女。
10番目に生まれた女児ということで、それこそ蝶よ花よと、親にでき愛されて育った。
言い忘れたが、母は大正5年生まれ。

●不運な結婚

2度目の顔合わせで、母は、私の父と結婚した。
父の父、つまり私の祖父と母の父との間の話し合いで、結婚が決まってしまったという。
母は、父に見初められたというよりは、私の祖父に見初められた。
今にして思うと、そのとおりだったと思う。
母と私の祖父は、まるで恋人どうしのように仲がよかった。
その一方で、父とは仲が悪かった。
「悪い」というより、たがいの会話もなく、関係は冷え切っていた。
私の記憶のどこをどうさがしても、母と父が何か、しんみりと話しあっている姿など、
どこにない。
いっしょに歩いている姿さえない。
そんなわけでいつ離婚してもおかしくない関係だった。
が、父と母の間をつないでいたのは、祖父だった。

●貧乏

私が中学生になるころには、稼業の自転車屋は斜陽の一途。
遅くとも私が高校生のときには、いつ廃業してもおかしくない状態だった。
そんなあるとき、私は1か月に、自転車屋が何台売れたか計算したことがある。
そのときの記憶によれば、中古自転車が数台のほか、新車も数台だけだった。
その数台でも、よく売れたほうだった。
あとはパンク修理だけ。
それで、何とか生活を維持していた。
貧乏といえば貧乏だった。

しかし母は、けっしてそういう様子を外の世界では見せなかった。
『武士は食わねど……』というが、母のそれはまさにそれだった。
家計などあって、ないようなもの。
しかしそれでも母は、姉を日本舞踊に通わせたりしていた。
琴も習わせていた。
当時、日本舞踊や琴を習っている娘というのは、酒屋か医者の娘と、相場は決まっていた。

●自己中心性

私はM町という、田舎の町だが、昔からの町で生まれ育った。
岐阜県に当初、3つの高等学校(=旧制中学校)ができたが、そのひとつが、
私の町にできた。
明治時代の昔には、それなりの町だったということになる。
で、母は、そういう意識を強くもっていた。
「M町こそ、世界の中心」と。
その意識がこっけいなほど、強かった。

だから何かの事情で、M町から岐阜などの都会へ引っ越していく人がいるたびに、
「あの人は出て行った」と言った。
母が「出て行った」というときは、そこには「敗北者」というニュアンスが
こめられていた。
さらに言えば、「軽蔑の念」がこめられていた。
だからあるとき、私にこう反論したことがある。
「M町からG市へ引っ越したということは、成功組ではないか!」と。

●恩着せと脅し

母の子育ての基本は、恩着せと脅しだった。
「産んでやった」「育ててやった」が、恩着せ。
同時にことあるごとに、「お前を捨てる」とか、「家を継げ」とか言った。
それが「脅し」。
当時の私には、稼業の自転車屋を継げという言葉は、「死ね」と言われるのと同じくらい、
恐ろしいことだった、

私はこれらの言葉を、それこそ耳にタコができるほど聞かされて育った。
だからあるとき私は、反発した。
高校1年生か2年生のときのことだったと思う。
「だれが、いつ、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

しかしそれは同時に、私と母の間に、決定的なキレツを入れた。
いや、そのときはわからなかったが、ずっとあとになって、それがわかった。
私にとっては、母は母だったが、母にすれば、私は他人になった。

●帰宅拒否児

私は今で言う、帰宅拒否児だったと思う。
もちろんそのとき、それを意識したわけではない。
今にして振り返ってみると、それがよくわかる。
私は毎日、ほとんど例外なく、学校からまっすぐ家に帰ったことはない。
「寄り道」という言葉があるが、寄り道するのが当たり前。
寄り道しないで家に帰るということそのものが、考えられなかった。

寺の境内で遊んでいるときも、そうだった。
毎日、真っ暗になるまで、そこで遊んでいた。
そういう自分を振り返ってみると、「私は帰宅拒否児だった」とわかる。

原因は、これも今にしてわかることだが、私の家には、私の居場所すらなかった。
町中の小さな自転車屋で、「家庭」という雰囲気は、どこにもなかった。
居間の横が、トイレにつながる土間。
学校から帰ってきても、体を休める場所すらなかった。
加えて父の酒乱。
父は数日置きに酒を飲み、家の中で暴れた。
そのつど私は、近くに住む伯父の家に逃げた。

●親絶対教

私の生まれ育った地方には、「M教」という、親絶対教の本部がある。
私の父がまずその教団に入信。
それがそのまま、私の家の宗教になってしまった。

もっともM教というのは、仏教とかキリスト教とかいうような宗教とは一線を画して
いた。
冠婚葬祭には、ノータッチ。
そのため「道徳科学研究会」というような名前がついていた。
そのM教では、つねに「親」「先祖」、そして「天皇」を、絶対的な権威者として教える。
親や先祖、天皇に反抗するなどということは、もってのほか。
天皇を神格化すると同時に、先祖を神格化し、ついで親を神格化した。
子どもながらに私は、「ずいぶんと親にとっては、つごうのよい宗教だなあ」と思った。
で、ある夜、こんなことがあった。

M教では、毎月(毎週だったかもしれない?)、それぞれの家庭で、持ちまわり式に会合
を開いていた。
その夜も、そうだった。
私の家で、それがあった。

講師の男性が、声、高々に、こう言った。
「親の因果、子にたたり」と。
で、そうした話をしたあと、末席に座っていた私に向かって、その男性がこう言った。

「そこに座っているボーヤ(坊ちゃん)、君は、どう思うかね」と。

私はその夜のことをはっきりと覚えている。
私が小学3年生だったとことも、よく覚えている。
私はこう言った。
「たたりなんて、ない!」と。

そのあとのことはよく覚えていないが、私はその場から追い出された。
母がその場を懸命にとりつくろっていた。
そうした姿だけは、おぼろげながら記憶に残っている。





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最終更新日  2009年05月15日 10時50分29秒
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