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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年05月15日
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カテゴリ:家族のこと


●母の葛藤

私は母にとっては、自慢の息子だった。
私は勉強もよくでき、学校でも目立った。
そのこともあって、母は、私をでき愛した。
小学3、4年生ごろまで、毎晩、私を抱いて寝た。
私がそれを求めたというよりは、習慣になっていた。
そういう姿を覚えている人は、ずっとあとになってから、私によくこう言った。
「お前は、母親にかわいがってもらったではないか。そういう恩を忘れたのか」と。

忘れたわけではない。
しかし母が本当に私を愛していたかというと、それは疑わしい。
母は、私が母から離れていくのを、何よりも許さなかった。
口答えしただけで、そのつど、ヒステリックな声を張り上げて、こう言った。
「親に向かって、何てことを言う!」「親に逆らうような子どもは、地獄へ落ちる」と。

そして私は中学2、3年になるころ、母は、大きなジレンマに陥った。
「進学校は地元の高校にしろ」「家のあとを継げ」「大学は国立大学以外はだめ」と。
一方で「勉強しろ」と言いながら、「家から出るな」と。

国立大学といっても、当時は一期校と二期校という名前で分類され、倍率はどこも10倍
前後はあった。
私が受験した金沢大学の法文学部法科にしても、倍率は、8・9倍だった。
「国立大学しかだめ」というのは、事実上、「大学へは行くな」という意味だった。

●演技性人格障害者

母は今にして思えば、演技性人格障害者ではなかったか。
極端にやさしく、善人の仮面をかぶった母。
しかしそれは表の顔。
が、その実、その裏に、猛烈にはげしい、別の顔を隠し持っていた。
今でも、母の評価について、「仏様のように、穏やかでやさしい人でした」と言う人は多い。
たしかにそういう面もあった。
私は否定しない。
そういうことを言う人に対しては、「そうです」と言って、それで終わる。
あえて私のほうから、「そうではなかったです」と言う必要はない。
言ったところで、理解してもらえなかっただろう。

しかし私たち子どもに対しては、ちがった。
母は自分に対する批判を、許さなかった。
他人でも母を批判する人を許さなかった。
ジクジクと、いつまでもその人をうらんだりした。

●仕送り

今のワイフと結婚する前から、私は収入の約半分を母に送っていた。
結婚するときも、それを条件に、結婚した。
だからワイフは何も迷わず、毎月、母への仕送りをつづけてくれた。
額にすれば、3万円とか4万円だった。
当時の大卒の初任給が、5~6万円前後の時代だったから、それなりの額だった。
母はそのつど、「かわりに貯金しておいてやる」「あとで返す」とか言った。
が、それはそのまま、やがて実家の生活費に組み込まれていった。

母は、たくみに私を操った。
私が電話で、「生活できるのか?」と聞くと、いつも涙声で、こう言った。

「母ちゃんは、ダイコンを食っているから、心配せんでいい。
近所の人が、野菜を届けてくれるし……」と。

だからといって、私がとくべつに親孝行の息子だったとは思っていない。
当時はまだ「集団就職」という言葉が残っていた。
都会へ出た子どもが、実家にいる親に金銭を仕送りするというようなことは、ごく
ふつうのこととして、みながしていた。
が、こんなこともあった。

●長男の誕生

長男が生まれたときのこと。
そのとき私たちは、6畳と4畳だけのアパートに住んでいた。
母は一週間、ワイフの世話をしてくれるということでやってきた。
しかしその翌日、母は私にこう言った。
「貯金は、いくらあるか?」と。
私は正直に、「24万円、ある」と答えた。
が、それを知ると母は、私にこう言った。
「その金を、私によこしんさい(=よこせ)。私が預かってやる」と。

ワイフは少なからず抵抗したが、私はその貯金をおろして、母に渡した。
が、それを受け取ると、母は、その翌日の朝早く、実家へ帰ってしまった。

以後、こういうことがしばしばあった。
が、母がお金を返してくれたことは、一度もない。
最後の最後まで、一度もない。

●金づる

話が入れ替わるが、今でもなぜ母が、私から貯金を持ち去ったかについて理由がよく
わからない。
実家は貧乏だったが、長男が生まれた当時はまだ父も生きていた。
祖父も生きていた。
兄も、それなりに稼業の自転車屋を手伝っていた。
お金には困っていなかったはず。

一方、そういうことをされながらも、私は母の行為を批判したりはしなかった。
「かわりに貯金しておいてやるで」という言葉を、まだ私は信じていた。
が、今になってみると、つまりこうして母のあのときの行為を書いてみると、
言いようのない怒りが胸に充満してくる。
「私はただの、金づるだったのか」と。

●逆の立場に立たされてみて

私の二男に子どもができた。
私にとっては、はじめての孫だった。
そのときのこと。
私は二男にお祝いのお金を渡すことは考えた。
しかしその二男からお金を取ることは考えなかった。
いわんや貯金を吐き出させて、自分のものにするなどという考えは、みじんも
考えなかった。
そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「あなたのお母さんは、特別よ」と。
その言葉を聞いたとき、ムラムラと怒りが私の心の中に充満するのを感じた。
が、私の母は、私に対して、それをした。
してはいけないことを、した。
ふつうの親なら、できないことをした。
それが逆の立場になってみたとき、私にわかった。

●逆の立場

それ以後も、母は、容赦なく、私からお金を奪っていった。
「奪う」という表現に、いささかの誇張もない。
あれこれ理由をつけて、奪っていた。
その行為には、情け容赦がなかった。

「近所の○○さんが、亡くなった。(だから香典を送ってくれ)」
「今度、M(=姉)の娘が結婚することになった。(だから祝儀を送ってくれ)」と。
多いときは、それが月に数度になった。

半端な額ではない。
叔父の葬儀には、50万円。
叔母の葬儀には、15万円。
伯父の葬儀には、30万円、と。

冠婚葬祭だけは派手にやる土地柄である。
私はそう思って仕送りをつづけたが、これにはウラがあった。
実際には、その大部分を母が自分のものにし、相手にはその何分の1も渡していなかった。
やがて私は、そうした母のやり方を知るところとなった。






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最終更新日  2009年05月15日 10時50分07秒
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