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カテゴリ:家族のこと
●母の葛藤 私は母にとっては、自慢の息子だった。 私は勉強もよくでき、学校でも目立った。 そのこともあって、母は、私をでき愛した。 小学3、4年生ごろまで、毎晩、私を抱いて寝た。 私がそれを求めたというよりは、習慣になっていた。 そういう姿を覚えている人は、ずっとあとになってから、私によくこう言った。 「お前は、母親にかわいがってもらったではないか。そういう恩を忘れたのか」と。 忘れたわけではない。 しかし母が本当に私を愛していたかというと、それは疑わしい。 母は、私が母から離れていくのを、何よりも許さなかった。 口答えしただけで、そのつど、ヒステリックな声を張り上げて、こう言った。 「親に向かって、何てことを言う!」「親に逆らうような子どもは、地獄へ落ちる」と。 そして私は中学2、3年になるころ、母は、大きなジレンマに陥った。 「進学校は地元の高校にしろ」「家のあとを継げ」「大学は国立大学以外はだめ」と。 一方で「勉強しろ」と言いながら、「家から出るな」と。 国立大学といっても、当時は一期校と二期校という名前で分類され、倍率はどこも10倍 前後はあった。 私が受験した金沢大学の法文学部法科にしても、倍率は、8・9倍だった。 「国立大学しかだめ」というのは、事実上、「大学へは行くな」という意味だった。 ●演技性人格障害者 母は今にして思えば、演技性人格障害者ではなかったか。 極端にやさしく、善人の仮面をかぶった母。 しかしそれは表の顔。 が、その実、その裏に、猛烈にはげしい、別の顔を隠し持っていた。 今でも、母の評価について、「仏様のように、穏やかでやさしい人でした」と言う人は多い。 たしかにそういう面もあった。 私は否定しない。 そういうことを言う人に対しては、「そうです」と言って、それで終わる。 あえて私のほうから、「そうではなかったです」と言う必要はない。 言ったところで、理解してもらえなかっただろう。 しかし私たち子どもに対しては、ちがった。 母は自分に対する批判を、許さなかった。 他人でも母を批判する人を許さなかった。 ジクジクと、いつまでもその人をうらんだりした。 ●仕送り 今のワイフと結婚する前から、私は収入の約半分を母に送っていた。 結婚するときも、それを条件に、結婚した。 だからワイフは何も迷わず、毎月、母への仕送りをつづけてくれた。 額にすれば、3万円とか4万円だった。 当時の大卒の初任給が、5~6万円前後の時代だったから、それなりの額だった。 母はそのつど、「かわりに貯金しておいてやる」「あとで返す」とか言った。 が、それはそのまま、やがて実家の生活費に組み込まれていった。 母は、たくみに私を操った。 私が電話で、「生活できるのか?」と聞くと、いつも涙声で、こう言った。 「母ちゃんは、ダイコンを食っているから、心配せんでいい。 近所の人が、野菜を届けてくれるし……」と。 だからといって、私がとくべつに親孝行の息子だったとは思っていない。 当時はまだ「集団就職」という言葉が残っていた。 都会へ出た子どもが、実家にいる親に金銭を仕送りするというようなことは、ごく ふつうのこととして、みながしていた。 が、こんなこともあった。 ●長男の誕生 長男が生まれたときのこと。 そのとき私たちは、6畳と4畳だけのアパートに住んでいた。 母は一週間、ワイフの世話をしてくれるということでやってきた。 しかしその翌日、母は私にこう言った。 「貯金は、いくらあるか?」と。 私は正直に、「24万円、ある」と答えた。 が、それを知ると母は、私にこう言った。 「その金を、私によこしんさい(=よこせ)。私が預かってやる」と。 ワイフは少なからず抵抗したが、私はその貯金をおろして、母に渡した。 が、それを受け取ると、母は、その翌日の朝早く、実家へ帰ってしまった。 以後、こういうことがしばしばあった。 が、母がお金を返してくれたことは、一度もない。 最後の最後まで、一度もない。 ●金づる 話が入れ替わるが、今でもなぜ母が、私から貯金を持ち去ったかについて理由がよく わからない。 実家は貧乏だったが、長男が生まれた当時はまだ父も生きていた。 祖父も生きていた。 兄も、それなりに稼業の自転車屋を手伝っていた。 お金には困っていなかったはず。 一方、そういうことをされながらも、私は母の行為を批判したりはしなかった。 「かわりに貯金しておいてやるで」という言葉を、まだ私は信じていた。 が、今になってみると、つまりこうして母のあのときの行為を書いてみると、 言いようのない怒りが胸に充満してくる。 「私はただの、金づるだったのか」と。 ●逆の立場に立たされてみて 私の二男に子どもができた。 私にとっては、はじめての孫だった。 そのときのこと。 私は二男にお祝いのお金を渡すことは考えた。 しかしその二男からお金を取ることは考えなかった。 いわんや貯金を吐き出させて、自分のものにするなどという考えは、みじんも 考えなかった。 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。 「あなたのお母さんは、特別よ」と。 その言葉を聞いたとき、ムラムラと怒りが私の心の中に充満するのを感じた。 が、私の母は、私に対して、それをした。 してはいけないことを、した。 ふつうの親なら、できないことをした。 それが逆の立場になってみたとき、私にわかった。 ●逆の立場 それ以後も、母は、容赦なく、私からお金を奪っていった。 「奪う」という表現に、いささかの誇張もない。 あれこれ理由をつけて、奪っていた。 その行為には、情け容赦がなかった。 「近所の○○さんが、亡くなった。(だから香典を送ってくれ)」 「今度、M(=姉)の娘が結婚することになった。(だから祝儀を送ってくれ)」と。 多いときは、それが月に数度になった。 半端な額ではない。 叔父の葬儀には、50万円。 叔母の葬儀には、15万円。 伯父の葬儀には、30万円、と。 冠婚葬祭だけは派手にやる土地柄である。 私はそう思って仕送りをつづけたが、これにはウラがあった。 実際には、その大部分を母が自分のものにし、相手にはその何分の1も渡していなかった。 やがて私は、そうした母のやり方を知るところとなった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年05月15日 10時50分07秒
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