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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年06月03日
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カテゴリ:社会時評

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●論語(Why now is Rongo?)

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今度、小学校でも、論語の朗読を
するようになったという。

しかし、今、なぜ、論語なのか?

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 論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応
神天皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百
科事典)。

 その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言え
ば、官僚たちの教科書だった。

 その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論
語なのか? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わ
ない。またそれまでは、私も否定しない。

 が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、ど
うしても、それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和の
ために戦った人たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本であ
る。

 たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。
それには抵抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。

 フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。

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1条
人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に
基づくのでなければ、存在することはできない。

2条
すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保
全である。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。

3条
あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明
示的に発せられていない権限を行使することはできない。

4条
自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各
人の自然権の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保す
ること以外の限界を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに
過ぎない。

(以下、つづく)

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 アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可
侵、不可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。

 この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまで
もない。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。

『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テ
ス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモ
ス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政
府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣
旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツ
ヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西
洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディア百科事典より抜粋)

 この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
という言葉が、生まれた。

 で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、ア
メリカ型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たさ
れている。

 どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、し
かしその(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手に
つくることは、許されない。

 しかし、どうして今、論語なのか?

【付記】

 日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、そ
れを自信をもっていえる人は少ない。

 天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにく
い。どこか口ごもってしまう。

 が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
と書いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま
読めば、天皇制の否定とも解釈できる。

 そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭
吉のような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。

 「人の上の人とは、だれのことか」と。

 で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。

 「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」と
いう解釈など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈など
が生まれた。詳しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は
人の」で検索してみればよい。

 しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じてい
た。

 その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つ
ぎのような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。そ
れに対するアメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという
態度であった。誰もワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源
頼朝や、徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も
関心を持っていないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならない
のだ。諭吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造
らず、人の下に人を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言
葉を生み出すことになる』と。

++++++++++++++++++

もう一作、武士道について。

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●明治の偉勲たち(Great People in Meiji Era)

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847~1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人々々の問題として、である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 権威主義 福沢諭吉 天は
天の上に 明六社 明治の偉勲 ワシントン)






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最終更新日  2009年06月03日 06時43分20秒
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