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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年08月05日
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カテゴリ:育児エッセー
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   5日号
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(301)

●会話でわかるママ診断

(過干渉ママの会話)私、子ども(年中児)に向かって、「きのうは、どこへ行ったの?」、
母、会話をさえぎりながら、「きのうは、おじいちゃんの家に行ったわよね。そうでしょ」、
再び私、子どもに向かって、「そう、楽しかった?」、母、再び会話をさえぎりながら、「楽
しかったわね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

(親意識過剰ママの会話)母、子ども(四歳)に向かって、「楽チィワネエ~、ママとイッ
チョで、楽チィワネエ~」「おいチィー、おいチィー、このアイチュ、おいチィーネー」と。
(溺愛ママの会話)私、子ども(年長男児)に向かって、「あなたは大きくなったら、何に
なりたいのかな?」、母、子どもに向かって、「○○は、おとなになっても、ズ~と、ママ
のそばにいるわよねエ。どこへも行かないわよねエ~」と。

(過関心ママの会話)母、近所の女性に、「今度英会話教室の先生が、今まではイギリス人
だったのですが、アイルランド人に変わったというではありませんか。ヘンなアクセント
が身につくのではと、心配です」と。

(権威主義ママの会話)母、子どもに向かって、「親に向かって、何てこと、言うの! 私
はあなたの親よ!」と。

(子ども不信ママの会話)子どもの話になると顔を曇らせて、「もう五歳になるのですがね
エ~。こんなことでだいじょうぶですかネ~?」と。……などなど。

 会話を聞いていると、その親の子育て観が何となくわかるときがある。もっともここに
書いたような会話をしたからといって、問題があるというわけではない。人はそれぞれだ
し、私はもともとこういうスパイ的な行為は好きではない。ただ職業柄、気になることは
たしかだ。(だから電車などに乗っても、前に親子連れが座ったりすると、席をかわるよう
にしている。ホント!) 

 英語国では、親はいつも「あなたは私に何をしてほしいの?」とか、「あなたは何をした
いの?」とか、子どもに聞いている。こうした会話の違いは、日本を出てみるとよくわか
る。どちらがどうということはないが、率直に言えば、日本人の子育て観は、きわめて発
展途上国的である。教育はともかくも、こと子育てについては、原始的なままと言っても
よい。家庭教育の充実が叫ばれているが、そもそも家庭教育が何であるか、それすらよく
わかっていないのでは……? 旧態依然の親子観が崩壊し、今、日本は、新しい家庭教育
を求めて模索し始めている段階と言ってもよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(302)

●家庭教育の過渡期

 家庭における教育力が低下したとは、よく言われる。しかし実際には低下などしていな
い。30年前とくらべても、親子のふれあいの密度は、むしろ濃くなっている。教育力が
低下したのは、教育力そのものが低下したと考えるのではなく、価値観の変動により、家
庭教育そのものが混乱しているためと考えるほうが正しい。

 昔は、親の権力は絶対で、子どもは問答無用式にそれに従った。つまり昔は、そういう
のを「教育力」(?)と言った。しかし権威の崩壊とともに、親の権力も失墜した。と、同
時に、家庭の中の教育力は低下し、その分、混乱した。しかし混乱した本当の原因は、実
のところ親の権威の失墜でもない。混乱した本当の原因は、それにかわる新しい家庭教育
観を組み立てられなかった日本人自身にある。家庭における教育力の低下は、あくまでも
その症状のひとつにすぎない。

そこで教育力そのものの低下にどう対処するかだが、それには二つの考え方がある。ひ
とつは、だからこそ、旧来の家庭観を取り戻そうという考え方。「親の威厳は必要だ」「父
親は権威だ」「父親にとって大切なのは、家庭における存在感だ」と説くのが、それ。も
うひとつは、「新しい家庭観、新しい教育観をつくろう」という考え方。どちらが正しい
とか正しくないとかいう前に、こうした混乱は、価値観の転換期によく見られる現象で
ある。たとえば一九七〇年前後のアメリカ。

 戦後、アメリカは、戦勝国という立場で未曾有の経済発展を遂げた。まさにアメリカン
ドリームの時代だった。が、そのアメリカは、あのベトナム戦争で、手痛いつまずきを経
験する。そのころアメリカにはヒッピーを中心とする、反戦運動が台頭し、これがアメリ
カ社会を混乱させた。旧世代と新世代の対立もそこから生まれた。その状態は、今の日本
にたいへんよく似ている。

たとえば私たちが学生時代のころは、安保闘争に代表されるような「反権力」が、いつも
大きなテーマであった。それが、尾崎豊や長渕剛らの時代になると、いつしか若者たちの
エネルギーは、「反世代」へとすりかえられていった。この日本でも世代間の闘争がはげし
くなった。わかりやすく言えば、若者たちは古い世代の価値観を一方的に否定したものの、
新しい価値観をつくりだすことができなかった。まただれもそれを提示することができな
かった。ここに「混乱」の最大の原因がある。

 今は、たしかに混乱しているが、新しい家庭教育を確立する前の、その過渡期にあると
みてよい。あのアメリカでは、こうした混乱は一巡し、いろいろな統計をみても、アメリ
カの親子は、日本よりはるかによい関係を築いている。ただひとつ注意したい点は、さき
にも書いたように、こうした混乱を利用して、復古主義的な家庭教育観も一方で力をもち
始めているということ。

中には封建時代の武士道や、さらには戦前の教育勅語までもちだす人がいる。しかし私た
ちがめざすべきは、混乱の先にある、新しい価値観の創設であって、決して復古主義的な
価値観ではない。前に進んでこそ、道は開ける。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(303)

●数は生活力

 計算力は訓練で伸びる。訓練すればするほど、速くなる。同じように、「教科書的な算数」
は、学習によってできるようになる。しかしこれらが本当に「力」なのかということにな
ると、疑わしい。疑わしいことは、きわめてすぐれた子どもに出会うと、わかる。

 O君(小3)という子どもがいた。もちろん彼は方程式などというものは知らない。知
らないが、中学で学ぶ一次方程式や連立方程式を使って解くような問題を、自分流のやり
方で解いてしまった。たとえば「仕入れ値の30%ましの定価をつけたが、売れなかった
ので、定価の2割引で売った。が、それでも80円の利益があった。仕入れ値はいくらか」
という問題など。それこそあっという間に解いてしまった。こういう子どもを「力」のあ
る子どもという。

 が、一方、そうでない子どもも多い。同じ小学三年生についていうなら、「10個ずつミ
カンの入った箱が、3箱ある。これらのミカンを、6人で分けると、1人分は何個ですか」
という問題でも、解けない子どもは、解けない。かなり説明すれば解けるようにはなるが、
少し内容を変えると、もう解けなくなってしまう。

「力」がないというよりは、問題を切り刻んでいく思考力そのものが弱い。「そんな問題、
どうでもいい」というような様子を見せて、考えることそのものから逃げてしまう。そん
なわけで私は、いつしか、「数は生活力」と思うようになった。「減った、ふえた」「取った、
取られた」「得をした、損をした」という、ごく日常的な体験があって、子どもははじめて
「数の力」を伸ばすことができる、と。こうした体験がないまま、別のところでいくら計
算力をみがいても、また教科書を学んでも、ムダとは言わないが、子どもの「力」にはほ
とんどならない。

 ……と書いたが、こんなことはいわば常識だが、こうした常識をねじ曲げた上で、現在
の教育が成り立っているところに、日本の悲劇がある。教育が教育だけでひとり歩きしす
ぎている。子どもたちが望みもしないうちから、「ほら、1次方程式だ、2次法手式だ」と
やりだすから、話がおかしくなる。もっといえば、基本的な生活力そのものがないまま、
子どもに勉強を押しつける……。

ちなみに東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、こんな興味ある調査結果を公表してい
る。小学6年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、2000年度に30%
を超えた(1977年は13%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低
下し、2000年度には35%弱しかいないそうだ。原因はいろいろあるのだろうが、「日
本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。

むずかしい話はさておき、子どもの「算数の力」を考えたら、どこかで子どもの生活力
を考えたらよい。それがやがて子どもを伸ばす、原動力になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(304)

●風邪薬は予防薬にはならない

 風邪薬をいくらのんでも風邪の予防にはならない。同じように、テストをいくらしても、
頭がよくなるということはない。(テストを受ける要領がうまくなり、見かけの点数があが
ることはある。)子どもの「力」は、生活の場で、実体験をともなってはじめて、伸びる。
言いかえると、生活の場で、実体験のともなわない知識教育は、ほとんど意味がない。ま
ったくないとは言わないが、しかし苦労の割には身につかない。あまりよいたとえではな
いかもしれないが、たとえば英語教育がある。

 私は高校生のとき、英語の教師から、「pass(過ぎる)とpurse(サイフ)は発
音が違う。よく覚えておけ」と、教えられたことがある。教師の発音では、どこがどう違
うかわからなかった。だからテスト勉強では、「passは、パース、purseもパース、
発音が違う」などと覚えた。今から思うと、何ともイイカゲンな勉強法だが、当時はそれ
が当たり前だった。で、英語のテストの点はよかったが、私の話す英語など、まったく役
にたたなかった。

 こうした「イイカゲン性」は、ほとんどあらゆる勉強に見られる。そのサエたるものが、
受験勉強。先日も中学生(中3男子)が、「長野の高原野菜、浜名湖のウナギ、富山のチュ
ーリップ……」と声を出して覚えていた。そこで私が「高原野菜って、何?」と聞くと、「知
らない」と。ついでに私が、「今では浜名湖のウナギはいないぞ。ぜんぶ養殖だし、それに
ほとんどが中国から輸入されている」「富山のチューリップより、袋井市にある『ユリの園』
のユリのほうが、よっぽどきれいだ」と言うと、その中学生は吐き捨てるようにこう言っ
た。「いちいちうるさいナ~。いいの、これで!」と。

 ともすれば私たちは子どもに勉強を教えながら、その風邪薬のようなことをしてしまう。
またそれをもって教育と思いこんでしまう。しかししょせん、風邪薬は風邪薬。たくさん
のんだからといって、風邪の予防にはならない。もちろん健康にもならない。あなたの子
どもの勉強も、一度同じような視点から見つめなおしてみてほしい。








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最終更新日  2009年08月05日 06時07分05秒
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