●母の介護記
●母の介護記+++++++++++++++母の介護をするようになって、もう5日目になる。昨日は、近くのデイ・サービス・センターへ体験入会に連れていってみた。みなは、粘土でイノシシを作っていたが、母だけは、ぬり絵。ただひとり、ボーッとした様子で座っていた。+++++++++++++++ 母の介護をするようになって、もう5日目になる。しかし介護が、こんなにも楽だとは思っていなかった。姉から聞いていた話とは、大違い! 初日は、何かと忙しかったが、2日目には、母は、そのまま私たちの生活の中に溶け込んでしまった。 もちろん世話はかかる。しかしそれとて、子どもの世話よりは、はるかに楽。 で、昨日は、デイ・サービスの体験をさせるため、近くのセンターへ連れていってみた。ひとりで家の中にポツンと置いておくのは、よくない。母は、もともと社交的な女性である。元気なときは、ほとんど毎日、クラブだの何なのと、出歩いていた。 半時間ほどしてから、様子を見るために、ワイフと2人で、センターまで、でかけてみた。ほかの老人たちはみな、粘土細工をしていたが、母だけは、ぬり絵をしていた。しかし鉛筆をもつでもなく、ただぼんやりとした。「こんなバカなことができるか」といった、雰囲気だった。 母は、最近まで、気丈夫だった。もう少し若いころは、気が強く、プライドも高かった。近所では、「お姫様」と呼ばれていた時期もある。 母の気持ちがよくわかった。その前の夜、ワイフに、ふとこう漏らしたという。「私は、ここで死ぬのかね?」と。母は、母なりに、何かを覚悟したらしい。 で、そのあと、つまり、センターを出たあと、私たちは近くのDIYショップへ出かけていき、いろいろな材料を買い込んできた。手すりを作るためである。私の家へ来るまで、歩行練習をほとんどしていなかったらしい。 介護用品の中には、既製の手すりもあるが、サイズが合わない。豪華なのはよいが、日本の住宅には、合わない。手すりも、老人の特性に合わせて、きめこまかく作るのがよい。たとえば私の母のばあいは、腕を押す力は弱いが、腕を引く力は強い。だから手すりも、やや高い位置につけてやると、自分で起きあがることができる。 その母は、予定より、1時間も早く帰ってきた。初日ということもあって、疲れてしまったらしい。私はできたばかりの手すりを母に見せた。「これで歩く練習をするといい」「歩けるようになったら、海を見に連れていってやるから」と。母は、手すりを、じっと見ていた。 ところで、この10年で、母は大きく変わった。10年前には、私に向かってでさえ、平気で、怒鳴りつけていた。気が強いというか、負けず嫌い。「子どもが親のめんどうをみるのは、あたりまえ」というような考え方をしていた。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」が、母の口ぐせだった。 その母が、昨日、こんなことを言った。よごれたおむつを替え、おしりを拭いてやっていたときのこと。私が、「お前は、ぼくが子どものころ、ぼくのおむつを替えてくれたからな」と言うと、「当たり前のことをしただけや」と。 母の口から、そんな言葉が出てくるとは、夢にも思わなかった。「親として、当然のことをしたまで」と。10年前の母なら、ぜったいにそんなことを言わなかっただろう。 で、その夜のこと。定時のおむつ替えのために母の部屋に入ると、母は、ひとりで、黙々と、歩行訓練をしていた。私が作った手すりに手をかけながら、右へ足を運んだり、左へ足を運んだりしていた。 「母ちゃん、ちゃんと、歩けるようになったじゃないか!」と声をかけると、母は、だまってそれにうなずいた。 「練習すれば、もっと歩けるようになる」「歩けるようになったら、海を見に行こう」と。 そこへワイフもやってきて、母が手すりの片方の端に手が届くたびに、パチパチと手を叩いてみせた。私も叩いた。 「介護」という名前にだまされてはいけない。「介護」というと、「一方的な世話」という意味で終わってしまう。が、それではいけない。母は、そこにいる。1人の人間として、そこにいる。この私に何かを教えるために、そこにいる。それが何であるかは、まだ、私にはわからない。わからないが、母は、この私に何かを教えるために、そこにいる。90歳をすぎても、なおかつ、まだ生きたいという、ものすごい情念。その情念は、いったい、母のどこから、どのようにして生まれるてくるのか。私は母のうしろ姿を見ながら、しばらくそれを考えていた。(つづく)