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 かつて橋川文三が、「戦争体験の思想化」 というようなことを言ったことがある。

 橋川が亡くなってからもすでに20年以上経つが、橋川や吉本隆明、鶴見俊輔らによって 「戦争体験」 の意味が論じられたのは、さらに前、ちょうど60年安保改定前後の頃である。橋川は、たとえば次のように述べている。

 私たちが戦争という場合、それは超越的な意味をもった戦争をいうのであって、そこから普遍的なるものへの窓が開かれるであろうことが、体験論の核心にある希望である。感傷とか、同窓会趣味とかには縁もゆかりもない。もしイエスの死のアナロジーを応用するならば、キリスト教における普遍の意識は、イエスの死に対する回想的感傷の集合でないことは明白であろう。それと同じように、戦争体験にこもる個々の感傷の集成ということを、私たちは、戦争体験論の課題とは考えないのである。ことばはややおかしいが、『超越者としての戦争』 ーーー それが私たちの方法なのである。

「『戦争体験論』の意味」「歴史と体験」所収    
 
  

 この 「超越者としての戦争」 という言葉の意味を、橋川は次のように説明している。

  私のいう原理過程というのは、まさに歴史意識における普遍理念、もしくは絶対者の機能に関する意識に対応するものにほかならない。もし太平洋戦争における無数の体験集合を戦争体験の基本要素と見るならば、そこからは戦争の全体的意味はかえって明らかにならないだろう。そのような個々の体験が、構造的に国体論的存在論の規定をうけている以上、国体論的歴史を超越した視野は開かれることがないだろう。その意味でも、新たな原理の観点の樹立と、戦争体験の超越化とが見合うことになるが、その場合、原理形成の根源的エネルギーとなるものは、原理存在の意識と、原理喪失の意識との間に生じる緊張以外のものではないだろう。   (同書)


 橋川が言おうとしていることは、あの戦争とそこでの体験を、新たな歴史意識を構築するための原理とすべきだということであろう。そのことを、彼はヨーロッパにおける歴史意識の起点となったイエスの死を持ち出してまで、説明しようとしているわけだ。 しかし、イエスの死はそれが歴史上の事実であるとしても、そもそも、ごく少数の信者を含めた同時代の人に目撃されたに過ぎない。その死は、彼を三度否認したペテロを含めたその場にいた信者らによって伝えられ、広められていったのだろう。むしろ彼の死は直接に目撃した者が少なかったからこそ、ルカやマルコの福音書にあるような形へと変容をとげ、信仰の対象としての象徴的な 「物語」 に転成することも可能だったのではないだろうか。

 とはいえ、橋川は 「戦争体験」 をなにやら 「神話」 や 「伝説」 のようなものへ昇華させることを主張しているわけではあるまい。そのような象徴としての物語を歴史意識の根底に置くことは、歴史意識の非合理化へ導く恐れがあるからだ。 このような 「超越者としての戦争」 という彼の主張が、多くの人、とりわけ彼よりも若い石原慎太郎や江藤淳、大江健三郎などの世代からは理解されず、奇異の念で見られたのは、ある意味ではむしろ当然と言える。

 なぜ、あの戦争なのか、という彼らの疑問に対して、橋川はルソーやフランス革命、ドイツ・ロマン主義などを持ち出し、「戦争体験」 がこの国における歴史的個体としての意識の確立を可能にするというような主張を繰り返している。だが、このような主張が、遅れた日本における主体的な近代的個人の確立ということであれば、ヨーロッパを模範とする多くの近代主義的な知識人の主張と大差ないように思える。






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Last updated  2009.08.02 15:40:40
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