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カテゴリ:啓蒙ということ

 「大衆社会」だって? そんなもの、社会学の入門書にも出てくる言葉じゃないか。
そんな文句が聞こえてきそうだ。まったく、そのとおりだ。

 だがだとすると、奇妙なのは 「日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトが、ない」 とか、「日本では 『知識人も大衆もみんな同じ田吾作だ』 と誰もが思っているのです」 という宮台の言葉だ。

 「知識人に対するリスペクト」 などというものは、私にはまったくの時代錯誤にしか思えない。しかも、日本と欧州を比較するという方法は、「日本には<近代的個>が確立していない」 といった類の、欧州に追いつき追い越せといわんばかりに欧州に対する日本の後進性を言い立てた、かつての近代主義者(丸山がその典型だ)の 懐かしいメロディー」 の再現のように聞こえる。現代社会について鋭敏な感性を持つ宮台がこのようなことを言うのは、いささか不可解な感じがする。

 さて、前回の続きだ。「凡庸な大衆」 に対する批判というのは、あまり評判がよくない。エリート主義、貴族主義、反民主主義的だとか。あるいはニーチェがナチスのお気に入りであったように、大衆を批判したオルテガもフランコの独裁に道を開いたのではないかとか。

 しかし、オルテガの主張は、「大衆の反乱」 こそがファシズムの登場を招いたということだ。つまり、彼は1930年代にヨーロッパを覆うようになったファシズムの支配に警鐘を鳴らしているのであって、その逆ではない。それにマルクスの思想もそうだったように、ある思想の信奉者と称する者らは、えてしてオリジナルな思想から自分に都合のいいところだけを我田引水的につまみ食いし、都合がいいように捻じ曲げ解釈してしまうものだ。これは、どんな思想にもつきまとう宿命のようなものだ。現実的な政治の動向と、彼らが掲げるイデオロギー的看板とは、たいていの場合、あまり関係はない。

 それに、「思い上がった凡庸な個人」 に対する批判というのは、けっしてエリート主義的な保守派だけの専売特許ではない。

 『フォルヴェルツ』(ドイツ社会民主党の当時の機関紙)の批評家たるエックシュタインは、事態において真に問題たる点につき、すべての 「専門家」 のうち最も理解少なき人である。彼は、労働者新聞の増加につれて生まれたジャーナリストの一人であって、この連中はいつでもなんについてでも、- 日本の親族法や近代的生物学や、社会主義史や、認識論や、人類学や、文化史や、国民経済学や、戦術問題や、人がまさに必要とするなんについてでも書くことができるのだ。 

「資本蓄積再論」より 

 これは、マルクスの再生産論を検討した 「資本蓄積論」 に対する批判への反論の一節であり、著者は(ロシア領)ポーランドで生まれドイツで活動した革命家、ローザ・ルクセンブルクである。彼女は、レーニンの前衛党論を少数者による官僚的な独裁だと批判したことで有名だが、ここで批判されている 「いつでもなんについてでも、- 日本の親族法や近代的生物学や、社会主義史や、認識論や、人類学や、文化史や、国民経済学や、戦術問題や、人がまさに必要とするなんについてでも書くことができる」 というような人間こそ、オルテガのいう 「大衆」 というものなのだ。

 このような 「いつでもなんについてでも」 書いたりしゃべったりできる人間、 それはいじめ問題から外交や政治問題まで、ありとあらゆることについてしゃべりまくる現代の 「評論家」 や 「コメンテータ」 と称する種族にぴったりの言葉である。






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Last updated  2009.08.02 15:21:25
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