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カテゴリ:鹿児島清水城
初夏のような好天に恵まれた今日、鹿児島市の清水城跡に行った。
先日の南日本新聞に掲載された募集記事“「鹿児島清水城山城部跡」調査整備保存活用事業発足準備の集い”で参加者募集を見たのがきっかけだった。同じ南日本新聞の2012年2月15日の記事「かごしま昔と今 見つめる」に取上げられた草木に覆われた荒れ放題となっていた山城跡「清水城跡」の整備に一人で挑んでいるという肥後吉郎さんその人が連絡先になっていたので、すぐ参加を申し込んだ。 「清水城屋形(平城)」は現在、私の母校でもある清水中学校になっているのだが、「山城部」は中学校の裏部分に広がる山になっていて、荒れ放題だったのだ。それを近くに住む肥後さんが、「清水城を残さずに何を残すのか」との思いでノコギリやナタを手に行く手を阻む竹や木を地道に切り払ってこられたそうだ。実際行ってみると、切り開かれた道は本丸まで達していた。 今日の参加者は15人くらいだったが、案内を引き受けてくだっさたのが、現在は東京在住の三木靖先生だった。なんという幸運。先生は鹿児島国際大学短期大学部名誉教授であり、専門は中世城郭史。中世城郭史と薩摩島津氏の研究においては第一人者といわれている方である。 では清水城とはどんなお城だったのか。 島津家6代当主島津氏久が嘉慶元年(1387年)やや内陸に居城を建てた。これが清水城である。清水城は平地にある居館と裏山に築かれた「後詰めの城」の二重構造になっており、その後の島津氏の基本形になった。その後、14代当主・島津勝久まで当主はこの清水城を本拠地にしていたが、天文19年(1550年)15代当主・島津貴久は更に海に近い内城に居館を移し、清水城の居館跡には大乗院が築かれ清水城の館部は廃城となった。(フリー百科事典・ウィキペディアに拠る) 三木先生も強調されていたが、この城は約160年間島津本家が居城としていたので、整備して残すべき遺産であるとのことだった。私も同感である。 尚、三木先生のブログ「山城散歩」の2011年11月編によると、昨年鹿児島史談会も「鹿児島清水城」を取上げたとのことで、その貴重な資料を今日いただいた。 過去には、鹿児島県と鹿児島市の教育委員会が考古学的な発掘も行っており、私が思っていたよりも研究はなされているようだ。 残された課題はいかに整備するかということだろう。 今日登る清水城跡を稲荷町公民館から見た風景である。山上の右に見える送電線鉄塔まで行ければというのが目標みたいだ。 登り口には、清水城の跡にあったという大乗院の磨涯仏が残されていた。 肥後さん手作りの竹の杖を持って急坂を登ったが、途中滑りやすい場所もあり、気を抜けない。しばらく行くと数箇所に石垣を見ることが出来た。長い石と短い石が交互に組まれており、テレビで見た滋賀の穴生衆の石垣の組み方だ。因みに熊本城もこの組み方だとテレビで放映されていた。 そこからしばらく歩くと空堀(からぼり)が続く。私はこれまで山城は3ヶ所しか行ったことはないので、詳しいことは分からないのだが、ここの空堀は三木先生の解説によっても、相当なもののようだ。 いよいよ「主となる曲輪(くるわ)の下に到着。この右上に城があったとのこと。 そこから右下に下って行くと、最初の写真にあった送電線鉄塔の下に到着。 前の多賀山・東福寺城跡の向こうに錦江湾を挟んで、桜島の展望が開けた。鹿児島人にとって桜島は切っても切れない山だが、ここからの眺めも素晴らしかった。 そこから引き返すこと30分で集合場所だった稲荷町公民館に到着。 公民館に上がって肥後さんを中心に三木先生の話を聞く。 その後、今後の取り組みを皆で話し合う。とりあえず5月12日有志で、木を切ったり草刈をやって整備していくことにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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