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カテゴリ:鹿児島の歴史
ここ清泉寺跡には島津大和守久章(しまづやまとのかみひさあき)とその家臣たちの墓がある。 久章は島津家15代当主・貴久の弟忠将(ただまさ)(御一門四家垂水家の始祖)の子孫で、18代当主にして薩摩藩初代藩主・家久の娘と結婚し新城島津家を興した。寛永16年(1639)19代当主(2代藩主)光久の命で江戸に行ったが、不行跡があったため、川辺の宝福寺に禁錮され、のちに清泉寺に移されて、上意討ちによって自害した(鹿児島県の歴史散歩・鹿児島県高等学校歴史部会編) その不行跡とは現地案内板によると次のようなことだった。 光久の命で江戸に赴いた久章は江戸紀州藩邸で玄関に駕籠を横付けにするという不作法をしでかした。相手が徳川御三家ということもあって、激怒した光久は久章に島流しの処分を課したが、これを拒絶したため上意討ちの役人を前に自害したのだという。ときに29歳だった。 島津久章墓所全景 松月庭栢庵主とある。 周りに墓所を守るように建つ五輪塔 ここにも板碑がある。 これで念願の清泉寺跡の記事はひとまず終わる。 広場から見える「その一」で書いたいろいろな磨崖仏の場所はいい天気にも恵まれてよかったが、そこから少し引き返して白い看板に書かれた「大和守久章の墓・・・」に扉を開けて入ってからは、ちょっと違う雰囲気だ。 特に、一番上の写真の奥にある久章墓所は周りが孟宗竹に囲まれて、その竹が擦れ合う音が不気味に響く。 それも、ときに不規則な異様な音も交じるのである。あまり長居をする場所ではない。 そうは言うものの、見落としたものもあり、またいつか行くかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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