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カテゴリ:島津一族
島津義久没後400年に寄せて
猛将・義弘と苦楽をともにした妻・宰相殿(さいしょうどの) 生年不詳~慶長12年(1607) 実窓婦人とも呼ばれる。園田清左衛門の娘で、広瀬助宗の養女、島津義弘の正室。島津久保、島津忠恒(家久)(薩摩守)らの生母。但し、最初の妻は北郷忠孝の娘、その後、人吉(球磨)の相良氏の娘が継室・亀徳となる。 宰相殿と呼ばれたのは、夫の義弘が参議などの官職に補任されて、参議の唐名(中国名)を宰相ということから周囲に宰相殿と呼ばれたのではないかと言われている。 永禄7年(1564)、北原氏を滅ぼし日向真幸(宮崎市えびの市)の領主となった義弘は、飯野城や加久藤城(二つともえびの市)などの築城、修復を行った。そして宰相殿を加久藤城に住まわせた。 天文元年(1573)にここで二男・久保(文禄の役に出征し韓国唐島で病死)天正4年(1576)三男・忠恒(18代当主、のち家久で初代藩主)などが誕生した。 加久藤城が元亀3年(1572)に島津氏の宿敵・伊東方からの攻撃を受ける。当時飯野城を守る義弘にはわずか300人の手勢しかなく、加久藤城も50人余り。眼前の伊東氏の軍勢3000人が迫り苦しい戦いとなった。勢力を広げていた伊東し当主・義佑はこの機を逃さず相良氏とも結び、真幸領内の3000人が押し寄せた。木崎原合戦の始まりだった。この戦いで島津軍の奮闘で伊東軍は川内川と池島川に挟まれた近くの木崎原(えびの市池島)まで退いた。この戦いで戦上手の義弘は敵将・伊東新次郎を討ち取るなど、相手は総崩れとなった。宰相殿は天正18年(1590)まで加久藤城に住んで、久保や忠恒(家久)などを育てた。 宰相殿は義弘との夫婦仲がよく、二人の間では義弘朝鮮への出征時にも手紙が交わされていて、お互いの愛情の深さを窺うことができる。 関ヶ原の戦いで諸々のいきさつがあって豊臣側についた義弘軍だったが、時に利あらず敗走することになった義弘に大きな課題が残されていた。息子である忠恒(家久)の妻で兄・義久の娘である亀寿が大阪城に人質として残されていたので、それを救出し薩摩に連れ帰ることが、忠恒に家督を継がせる絶対条件と考えていたのだ。人質は亀寿だけではなかった。義弘夫人・宰相殿、義弘の甥・豊久の姉らもそうだった。幸いにして知恵を絞った末に幾多の苦難を乗り越えて薩摩に帰りつくことができた。 そんな宰相殿は、慶長12年(1607)義弘より先に病没したというが、義弘は芳真軒という寺院を建てて菩提を弔った。遺骸は妙円寺(鹿児島県日置市伊集院)に埋葬されたが、明治維新後に島津家の菩提寺 福昌寺跡に埋葬された。 参考資料 「島津義弘公の概要」 加治木郷土館編集 「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」 姶良市教育委員会 「島津義弘 没後400年」 南日本新聞連載記事から 「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」 川口 素生 著 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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