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カテゴリ:Tくんの物語
(写真は平和通り、私がいた当時はなかったモノレールが開通し街の景観も一変している) 私が銀行に入社し北九州の小倉支店に配属されて、仕事も出納・会計係、預金係を経験し、未熟ながら銀行業務にもいくらか慣れきたといことを前回書いた。 それ以前にも書いたように、小倉支店は当時のF銀行の建屋を居抜きで買ったようで店舗は立派で風格のあるものだった。ただ京町銀天街の賑やかな場所だったので今思うにF銀行も大通りに面した場所に転居したのだろう。しかし、モータリゼーションの大きな波の押し寄せる中で、支店に駐車場も無く、お客さんの要望や先々を見据えて我が銀行も馬借町に土地を買って支店を新築して移転した。 (旧店舗は小倉駅の左前方、京町2の左側あたり、新店舗は地図の真ん中、真下市立医療センターの真ん前あたりにある。銀行の前も高いところをモノレールが走る) 新しい支店も2階建てではあったが、以前の建物の比べると小ぢんまりとしていた。 しかし、新築だけに快適な職場であった。その頃から私は「貸付係」となり、銀行のお金を貸し付けて金利をいただくという銀行にとって要のポジションの仕事をしていた。それ等を経験した後に渉外係があり、お得意さんをまわり、新規の預金の獲得や優良な貸付先の開拓という仕事が待っているというのがおおまかな順番である。 貸付係は窓口に2人、中に1人、その上に係長という4人編成だった。私達ペイペイは窓口でお客さんの応対をするのだが、私に付くお客さんと、FRくんに付くお客さんがおり例えば私に付くお客さんはFRくんの窓口にお客さんがいなくても、私の窓口が空くまで待っているという現象が起こった。またその逆も、もちろんある。貸付はお金の貸し借りという微妙な問題なのでそういう事があっても不思議ではないと、今になって思う。月末になると返済のお金や貸付の借り換えをするために利息を払いに来るお客さんで、窓口は大忙しだ。頭を上げる暇もないくらいお客さんがズラッと並んでいる。そういう中で計算機もない時代の金利計算はソロバンで金額✕日数✕日歩を位とりしながらやらなければならなかった。慣れるまでは大変だがまあ大過なくできたのだろう。大きな事故もなかったことを考えると。 そういう中で珍しいことが起こった。私が大学4年生のとき、当時中学3年生だった近所の子供を家庭教師として高校受験の加勢をした子供が某大学を卒業して私と同じ銀行に就職が決まったというニュースだった。そして4月になって配属先が決定し、私のいる小倉支店にくるとのこと。なんというめぐり合わせか。しかもこれには近い将来第2幕もあるのでお楽しみに! そういう中で、古い店舗の時からそうだったが、新しい店舗に引っ越してからも若い連中も中堅どころも銀行を辞める者が出始めた。この頃は組合の分裂という不幸な事態を引き起こすような金融再編とかがいわれ始めた時期で、先行きの不安を持つのも仕方のない情勢でもあった。私の目の前でも4,5人の者が辞めていった。他の支店でもそういう動きがあるということが入ってくる。 現代は入社数年のうちに辞める人の比率が相当に高いと聞くが、当時は「一回入ったら一生の仕事」と言われる時代で、簡単には辞めるような時代ではなかったが、現実はそういう動きが多くなっていた。 そうする中で、結婚一年後に長女誕生、翌々年3月には長男が誕生し年子の子供を抱えることになる。 2年位前から考えてはいたのだが、そういうことをキッカケに私も将来のことを真剣に考えて転職先を探し始めた。そういう意志のある信頼のおける同僚ともいろいろ話をしたりしていた。そのうちの一人がいい会社が見つかりそうだと言う。聞くと私の窓口にみえるお客さんの紹介だと言うではないか。その同僚NKくんは渉外係としてそのお客さんを担当する中で、転職の話をしたらしい。そのお客さんSBさんは、ある安全産業の下請けとして農業の片手間にヘルメットの新品の内装付けとマーク加工・古いヘルメットの塗り替えをする業者だった。私はSBさんがその会社から仕事代金として受け取って持ち込む手形の割引を担当していたのだった。もちろんその手形を割引するためには、それまでに然るべき調査はやった上でのことだったので、大体のことはわかっていた。しかもその会社は伸び盛りで二人でも三人でもいい人がいれば採用するという。しかし肝心なNKくんは別な会社に行くことになってしまった。私は直接SBさんに話をして会社のことを聞くなどし、面接にまでこぎつけた。 そして9月某日、八幡東区にあるその会社の九州支店に赴き常務取締役の支店長の面接。 話はトントン拍子に進み、就職決定。その会社が11月20日が半期の締め日ということで11月21日からの出社となる。銀行には11月20日付けの退職届を提出し、受理される。その後バタバタと八幡西区の会社と妻の里に近い小倉の民間アパートを借りて引っ越した。銀行在職は小倉支店にみで7年8ヶ月。 ときに昭和44年(1969)29歳の秋だった。➆ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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銀行を7年8か月で年で 退社されたのですね。新しい会社勤めに 張り切ってましたね。お子様もお二人になって ヘルメットの会社へ 転職されたのですね。
(2022.07.04 20:32:38)
蕗さん8256さんへ
銀行の一つの支店のみ、しかも長期間というのは現地採用以外ではそうそうないのですが、私が暴れん坊だったせいでしょう。(笑) 私がその後、勤務した会社のことは次回から書きますが、ヘルメットだけの会社ではありません。ヘルメットの専門商社もいくつかありますが、それぞれ特徴があって仲間でもあり、ライバルでもありました。 (2022.07.04 20:42:11)
おはようございます。
主人と年齢が同じ位ですね 組合争議等もありましたが、主人は大学卒業後 定年を迎える迄勤めた会社を退社しました 家庭教師をされていた方が銀行に就職されたのですね 配属先は同じ小倉支店だったのですね (2022.07.05 05:53:28)
銀行は業務が大変ときいたことがあります。
数字に弱い私には逆立ちしても慣れない職です(笑)。 昭和44年、私はまだ生まれておらず、親鳥たちも結婚していませんねぇ。 それではまた。 (2022.07.05 14:43:11)
こんにちは。
一昨日、所用にて黒崎へ。 図書館・ひびしんホール近辺に石垣が見えましたが何の跡地でしょう? ひびしんは方言でしょうか? 滞在先は八幡西区。 松林もあったので昔は海岸だったのでしょう。 クマタツさんファミリー再出発の地の近くだったのですね。 S44年は私が生まれた年です。 「アポロ月面着陸」といえば皆さん思い出してくださいます。 もう1日仕事を休んで、小倉に足を延ばしたかったです。 (2022.07.05 15:17:00)
ばーど白鳥さんへ
ご両親も、バードさんも改めてお若いということがわかりました。 私も全くの文系なので、やっとこさソロバンをはじいていました。 現在は全てを機械がやってくれる世の中になりましたから、楽でしょう。 ただ、いろいろな勘を働かせなくてもいいので、そういう点ではどうなのかとも思いますね。 (2022.07.05 16:34:04)
yokota115さんへ
そうでしたか。いろいろとお忙しそうでいいことです。 黒崎も懐かしい街です。 私の入社当時は職場が八幡西区の前田というところにあって、現在はその反対側の黒崎寄りに引っ越していますがgoogleの地図に会社名も掲載されていました。 職場から近い繁華街は黒崎だったので、飲み会なども二次会などは、ほとんど黒崎でした。65歳になってから本社の監査室勤務(鹿児島在住のまま)で八幡の店にも5年間行きましたが、いつも黒崎のホテルに泊まっていました。 「黒崎ひびしんホール」というのは初めて知って驚きました。 石垣は見たことはありませんが、あの近くに「黒崎城跡」があったようなので確信はありませんが、その石垣かも若江いませんね。 北九州時代は八幡駅から山手にある「響ホール」では何回か歌ったことや演奏会を聞きに行ったことはあります。 (2022.07.05 16:51:41)
終身雇用、定年まで一つの会社で働くというのが普通だった時代ですよね?でも、クマタツさんには転職を後押しするような、風が吹いたのですね。
クマタツさんのような、自然にその方向に流れていくような、自分が求めるというよりお膳立てが整っていくというような転職は良いですね。 ちなみにわたしは、大学卒業後10年間の最初の社会人生活で転職3回。 転勤、出向を含めて6箇所の勤務先を経験しました。 ちょっと変わり種ですね。 家庭教師の教え子さんが同じ銀行の同じ支店に来られたというのも珍しいお話ですね。 この話題も後編があるそうですし、もちろん転職先でもいろいろ面白いお話を伺えそうです。楽しみにしています。 (2022.07.05 22:37:34)
銀行の仕事は大変だろうなあと、ぼんやりと思うだけでしたけど・・・ここで読ませていただいて、本当に並大抵ではないと思いましたよ。
でも私たちの生活って銀行にはとっても深いつながりがありますよね。家のローン、今は日々の年金の入れ出しだけですけど。でも一生続く物。 しかしまだ働き盛りの時にあたらしいお仕事に切り替えられて、その方のやはり人間性が見込まれたのでしょうね。人生長いけど、やはり男の方は特に仕事が家庭の暮らしにかかっていますのでね。 今は女性だってそんな状況で働いている人もおおく尊敬します。・・・わたしは 子育てのために教員をやめました。 自分の子どもは自分で育てたいと思ったからです。 (2022.07.06 06:55:11)
mamatamさんへ
私たちの若い頃は、何故転職するのか訝られた時代でした。 そのため妻の里の理解をもらうために腐心したり、大変でしたが、最終的には皆の理解のもとに転職できました。 その転職がうまくいったので自分でもホッとしています。 (2022.07.06 09:22:23)
ローズコーンさんへ
転職した会社から更に鹿児島に帰って半独立という形までやって会社人生を終えましたが、環境にも恵まれて仕事の面でもまあまあという生き方ができたと思っています。「Tくんの物語」これからどれくらい書けるかわかりませんが、がんばってみたいと思っています。 最近こそジェンダーとか何とか、詳しいことは理解していませんが、男女差のことでも世の中が変わってきたような? 印象がありますが、私達の時代は、女性にはハンディキャップが大きかったですね。 先生というお仕事は、もっとも大事な仕事なのに男女差のことは先生の世界でも当時は解決できなかったですねぇ。最近は産休の間の代理の先生とかも配置されるようでいくらかは進歩があるのでしょうが、一般的にはまだまだ理解が進んでいないように思いますが、どうなのでしょう。 (2022.07.06 09:37:32)
kopanda06さんへ
50年の時の速さを感じますし、これから先の世の中がどうなっていくのか、さっぱり想像もつきません。 (2022.07.07 08:17:40)
いつもコメントを頂きまして、
誠にありがとうございます。 テーマから外れてしまいますが、 TVアニメーション「アルプスの少女ハイジ」を 起用したTVコマーシャルで一躍有名になっています。 今は亡き俳優の二谷英明さんの長女に当たる 二谷友里恵さんが社長を務めています。 (2022.07.07 11:14:58)
人間辛抱さんへ
いつもありがございます。 (2022.07.07 14:25:24) |