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カテゴリ:旅行・ドライブ
大慈寺訪問を終えた私達バスツアーの一行が向かったのは「宝満寺跡」。 現在は「宝満寺公園」として広い敷地のままいろいろな史跡が残されていた。 所在地は鹿児島県志布志市帖6530番地。 史跡「宝満寺跡」は、廃仏毀釈によって明治2年(1869)廃寺となった律宗秘山密教院宝満寺の遺跡である。宝満寺は聖武天皇の神亀年間(724~728)の創建と伝えられ、西和5年(1316)院宣を受けた信仙上人英基和尚によって再興された勅願寺でもある。本尊の如意輪観音は元応2年(1320)本山の奈良西大寺より下向された、仏師運慶の不朽の名作といわれ、安産守護として霊験あらたかで、日向・大隅・薩摩の人々に厚く信仰されており、安産の護符も発行されていた。また花嫁を馬の背に、花婿が手綱をとるシャンシャン馬の参詣風物もこの地に始まるとされている。 足利直義(ただよし)は興国元年(1340)当寺に一国一基の塔婆を建てさせ、仏舎利二粒を奉納している。宝満寺は古来「院参(上皇に謁見できる)」の寺格を有し、御桃園天皇の時、勅許を得て「参内(上皇に謁見できる)」も許された名刹だった。 坊津一乗院と並び、「西海の華」と呼ばれた美しい伽藍の宝満寺は、廃仏毀釈により、華麗な堂宇や一切の什宝・記録等が失われたが、旧敷地跡に庭園・下馬札・隈田原兄弟仁王像・歴代住職墓地等を残し、岩窟や背後の自然林と調和して、往時の様子を偲ばせてくれる。(案内板より抜粋) 隈田原兄弟の仁王像 廃仏毀釈により、このような姿になったのか仁王像の名残を留めるくらいにしか見えない。 応永8年(1401)の島津家の内乱の時、犬ノ馬場(いんのばば)の戦いで戦死したと伝わる隈田原兄弟の武勇を偲んで、建立されたものだという。 この時代は島津元久(島津家第7代当主で奥州家第2代当主)の父である島津家第6代当主ともう一人の第6代当主・師久(もろひさ)(総州家)が並立した時代で、それぞれの子である元久と伊久(これひさ)がそれぞれ第7代当主となった。 この6代と7代が二人づつという形は島津家700年という長い歴史の中でもこの時代だけである。 しかし、並立の時代は長くは続かず元久側に統一され8代当主には元久の兄弟である久豊が就くことになる。このあたりのことはwikipedia「島津元久」の項に詳しいが、応永8年、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため奥州家、総州家は絶縁状態となり、薩摩国内が争乱状態となるが、最後は先述の通り元久側に統一されるのである。隈田原兄弟もこの争乱での戦死だと思われる。 志布志麓について地元の歴史語り部のボランティアの説明があった。 その中で私の興味を惹いたことがある。 それは島津元久が鹿児島市の「清水城」(後、大乗院を経て現在私の母校である清水中学校になっている)を築城の際に、ここ志布志に似せて造ったと言う話だ。 なるほど上の「志布志まちあるきマップ」を見るとわかるのだが、両方とも川を挟んで志布志城と清水城が造られている。 私は「放浪の俳人・種田山頭火」のことについては詳細は知らなかったが、この案内板を見て大きな興味をもったので、志布志を訪れた案内板と歌碑をここに紹介した。 庭園は自然林と大岩盤を背景にして、湧水で池をめぐらしたもので、一部を除き旧状のまま残されている。少し紅葉も残っていて素晴らしい景観だった。 宝満寺本堂跡の表示もある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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