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ジージの南からの便り

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2023.06.01
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カテゴリ:旅行・ドライブ


 松山公園を後にして平和公園に向かう。
まだ朝の8時半頃だったが、平和祈念像に向かって歩く人々の姿が見える。
この平和祈念像は長崎出身の彫刻家・北村西望氏の作になるもので高さ9,7m,重さ30t,材質は青銅である。この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は「原爆の脅威」を、水平に伸びる左手は「平和」を、軽く閉じた瞼は「原爆犠牲者の冥福を祈る」という想いが込められいるという。

 この平和公園は私の長崎時代の勤務場所の後ろ側の小高い山の上に作られており、住んでいた場所も歩いて20分くらいの場所だったので、休日には家族5人でよく遊びに来た場所でもあり、今回訪ねても色々な想いが去来した。


 この平和公園は「長崎刑務所浦上支所跡」である。
下の案内板にあるように原爆落下当時は収容者81人がいて、職員等も含め134人全員が亡くなった悲劇の場所でもある。


 刑務所跡地


 平和公園には様々な平和を祈念する像が置かれている。


 「平和の泉」 直径18mあるという。
水を求めて亡くなった人々の霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いを込めて浄財を募り建設された。昭和44年(1969)完成。


 碑に書かれた被爆した少女の手記が喉の乾きを訴える。


 平和公園の坂を下り、次に向かったのは浦上天主堂である。




 天主堂への坂の途中から振り返ると桜が満開で、左側にはキリスト教関連の施設が見えた。




 以前書いたブログにもあるが、被爆した石造が天主堂の左手前に当時の姿のまま保存されている。


 なんと以前は気づかなかった狛犬をここでも発見して驚いた。










 浦上天主堂を後にして「長崎市永井隆記念館」に向かう。
ここにも数回訪れたことがあったが、数年前に高校の同期会の旅で訪れて観光バスに乗った時、ガイドさんが永井博士の「この子を残して」の書き出しの部分を朗読してくれたことがあり、その時私は大きく心を揺すぶられた。今回はネットでその青空文庫の永井隆博士の「この子を残して」を読んで改めてここを訪れたいという想いに駆られて今回の旅のコースに組み入れていた。




 「この子を残して」の舞台になった当時の長い博士の自宅が「如己堂」という形で残されている。
永井博士の家族は奥さんと息子の誠一さん、娘の茅野さんの4人家族だったが、奥さんは原爆で亡くなってしまう。子供二人は他所に行っていて助かった。永井隆博士は勤務先の病院で被爆した。
 私がバスガイドの朗読を聞いて「この子を残して」を読もうと思った書き出しの部分は次のように書いてある。

 うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのかカヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから「ああ、・・・・・お父さんのにおい・・・・」と言った。
この子を残してーーこの世をやがて私は去らねばならぬのか! 母のにおいを忘れたゆえせめて父のにおいなりとも、と恋しがり私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。
戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばまらぬ運命をこの子は知っているのであろうか。  続く

 続きを読みたい方は「この子を残して」でウエブ検索すれば出てきます。
是非読んでください。戦争がいかに悲惨なものであるか、また現今の核兵器の脅威をどのようにしてでも阻止しなくてはならないかを思い知らせる一文です。





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Last updated  2023.06.01 08:54:19
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