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2021.07.10
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カテゴリ:レンズ
オランダの写真レンズに関しては、既に19世紀後半から20世紀初頭に掛け、
アムステルダムで1868年に創立され、第二次大戦辺りまで写真用品を販売して、
恐らく販売権も持っていたE.Fischel Jr氏により、
オランダのレンズメーカー、Fabriek van Fotografische Producten製で、
Astra銘というイエナガラスを使ったアナスティグマートと、
多分、オランダのガラスを使ったアプラナスティグマートいう名前のレンズが販売されていた。


今のOldelftは1939年にオスカー・ヴァン・レール氏により、
オランダの南ホラント州に創立された光学メーカーで、
当初は、NV Van Leer’s Optische Industrieと称していた。

同社は、デルフトのアウデ・デルフト(=オールド・デルフト)36のニッカースティーグで、
光学機器と精密機械を製造していたのだけど、
オランダがナチスによって占領されると、ヴァン・レール氏が所有していた会社は、
ユダヤ系であった為に接収されて清算寸前にまで追い込まれてしまう。

この時に、N.V. Optische Industrie "De Oude Delftを担当して、
X線モニター写真システムに関わっていた、
発明家で140もの特許を持つフィリップスの従業員だった、
アルバート・ブーイーズ氏がフィリップスグループ5代目会長の、
フリッツ(フレデリック)・フィリップス氏と共に仲介に乗り込み、
フィリップス氏はOude Delftの監督取締役に就任して、
アメリカに渡った創業者のヴァン・レール氏はアメリカの販売権を獲得する。

その後、アウデ・デルフトからは医療、防衛、工業製品が生み出されて、
フィリップス社との分業制度は続き、以降、フィリップスはデルフトより光学機器を調達。

しかし、戦時中の状況は悪化して、ユダヤ系の従業員は次々と逮捕されていってしまう。
それでも精密な機械技術が必要なX線フィルムカメラの開発は継続していたけど、
それすらも不可能になると、万華鏡や段ボール製の鏡を使ったおもちゃを作る羽目になる。


戦後になると、フィリップスとの長く複雑な交渉に入り、
それは1947年に完了して、リカバリーバンクが資金の提供を開始。

フィリップス氏がデルフトから退任した後に、
有名な物理学者、ラルフ・クローニング氏が監査役に就任すると、
デルフトのオースティンゲルに新しい工場が建てられ1948年から再始動。

当初は内部の紛争で数年間は赤字が続いた後に、
再編成を経て安定すると、以降はX線カメラ、レンズの反射防止コーティング、
暗視ゴーグル、航空写真用の走査型ステレオスコープ、
フィリップス・ブランドの映写機レンズ、カメラレンズ、学校用の顕微鏡、
シネマスコープのワイドスクリーンプロジェクションなどを製造していく。

当時の蒸着工場。


1952年当時、アメリカにはOld Delft Corporationが存在していて、
Aerojet Generalとの合弁を立ち上げると、
ニューヨークのプレーンビューにAerojet Delftを設立。

1957年には創業者のヴァン・レール氏が監査役として復帰。
1960年にレーワルデンに工場が作られ、暗視ゴーグルを生産。
1963年には、ギーセンのFranke&Co.を買収。

1960年にスターファイター戦闘機の購入が決定すると、
デ・アウデ・デルフトでは赤外線バイザーを開発。
空中カメラも作られ、次にイメージインテンシファイアを完成すると、
暗視装置の赤外線スポットを不要にした。

1969年ハーグのDltronix Nuclearを買収。
体内の放射性元素を監視する装置を販売する、
Deltronix Nuclear Delftを設立。
この事業は最終的に東芝へ引き継がれる。

1970年にイメージインテンシファイアの開発製造のローデンに工場が作られて、
屈折系の光学メーカーだったザイストのC.Eブリーカーを買収して、
デルフト電子製品のDEPが設立された。

1973年には業績が悪化して、1977年までに224人の従業員が解雇され、
1978年には最悪の状況になるも、130人の従業員と再編成で1970年代後半には持ち直す。

1983年に軍需機器に関わっていた同社は、
武器禁輸下のイラクに暗視装置を輸出したとして提訴される。
輸出の目的地がショートカットをする為にイギリスとポルトガルだった為、
当時は最終目的地宣言の明示が不要だったお蔭で無罪となる。

1985年に会社名がOldelft Groepeに変更。
1990年にはNV United Instrmentenfabrieken
Enraf-Noniusと合併して、Delft Instrumentsを設立。

現在、医療画像機器と超音波機器が、
Oldelft Benelux、
Delft Diagnostic,
Oldelft Ultrasoundにより、
主にベネルクスとアフリカの新興国に供給されている。

オルデルフト・ベネルクスのロゴマークには2つの円弧が描かれている。
これは、アウデ・デルフトに掛かる橋と水面に写る風景を表したものだ。
現在では、日本のキヤノングループの一員になっている。


ロゴマークの元になった、アウデ・デルフトの橋。


今も残るデ・アウデ・デルフトの元工場。



オランダの光学を辿る為、同地で発明された望遠鏡の事を拾ってみた。
オランダでは1608年に眼鏡師のハンス・リッペルハイ氏により、
世界初の望遠鏡が生み出されている。

実の所、当時の望遠鏡の特許に関して、
オランダのレンズ職人による望遠鏡の特許申請がなされたのは、
1か月の間に3人居たそうで、その中で一番早かったのがリッペルハイ氏であった。


それに先立つ1561年、交易で栄えて当時十数万人規模の大都市だった、
アントワープのネーデルランド地方で本格的なガラス工場が操業開始される。

巨万の富を生み出していたベネチアンガラスは、
技術の漏洩を防ぐ為にあらゆる手段で防ごうと躍起になっていたのだけど、
逆にヨーロッパ諸国はあらゆる手段で、技術を盗もうと躍起になっており、
最初にネーデルランドにやってきたガラス職人のヤコモ・パスキッテ氏は、
北イタリア・プレシアの人間だった。


パスキッテ氏を起点としたアントワープに於けるガラスによる繁栄は、
隣のミデルブルフの行政長官にとって羨望そのものであった。

ようやく1581年になるとアントワープから、
ガラス職人のファン・デル・ハグ氏を招聘し工場を建設すると、
免税や補助金で支援して、当時は義務だった夜警やギルドの規約まで免除。
行政による振興策は成功して、やがてミデルブルフのガラスは、
ヨーロッパやイギリスに輸出されるようになる。

1585年にはオランダの独立戦争が始まり、アントワープはスペイン軍に占拠される。
当時6000人ほどのミデルブルフの人口は、1600年には避難者や移住者で18000人に増加。
かつてのアントワープの繁栄が、そのままミデルブルフに移る事になった。
1602年に東インド会社が設立されると、アムステルダムに次ぐ商業都市として繁栄。

1605年にガラス職人のハグ氏が亡くなると、
イタリアの一流吹きガラス職人のアントニオ・ミオット氏が工場を買収。
1606年の記録では、ベネチアやアントワープの職人など60人が働いていたらしい。
20年ほどで、ミデルブルフのミオットガラスはヨーロッパ随一に踊り出る事になった。


ギルドという封建的で既得権を守る為の制度を嫌ったオランダは、
手に職のある人物をドンドン受け入れて新技術に関してはギルドの規約を除外した。
おまけに自由な特許出願で発明者を保護して、優先的に利益をもたらしていた為に、
近隣諸国から優秀な人材が集まっていたのだ。

その中の一人だった眼鏡師のハンス・リッペルハイ氏は、
ミデルブルフから200Kmほど離れたドイツのヴェセル出身だ。
1602年には市民権を取得して、一番早く眼鏡製作者として登録された。

リッペルハイ氏は、当時世界でも最高の品質を持つミオットガラスを使い、
眼鏡を制作していたが、それを元に凸レンズの対物と凹レンズの接眼を組み合わせた望遠鏡を生み出し、
1608年9月末にリッペルハイ氏の望遠鏡は、ハーグのマウリッツ宮殿で実演披露された。

この頃の望遠鏡は、レンズ周辺部の研磨精度が甘かったので、
予め、大きめのガラス素材を用意して完成したレンズの前面に対物絞りを付けていたのが特徴だ。

この話は瞬く間にヨーロッパ中に広まり、
性能はともかく数か月後になると望遠鏡は既に庶民にまで行き渡っていたらしい。
中でも1609年7月に、イタリアのガリレオ・ガリレオ氏が望遠鏡の製作に取り組み、
100枚を超えるレンズを研磨してレンズの製作技術を取得。
その年の暮れまでに20倍の望遠鏡を完成させて、12月には月面をスケッチした。
更に、翌年の1610年7月には木星の衛星を発見する事になる。


長々とオランダのオールド・デルフトと望遠鏡について書いてみたけど、
こうした歴史の上に存在しているオランダ製の望遠レンズは、
ちょっと特別な意味と雰囲気があって良いなと思う。

手元には、3本のアルパマウントのオールド・デルフト製レンズがあるけど、
なぜ、オールド・デルフト製の一眼レフ用レンズが、当時の花形だったM42やエクサクタではなく、
主に、それほど数が出ないアルパのマウントで供給されたのだろうか。

個人的には、ユダヤ排斥でアメリカに追いやられた創立者のヴァン・レール氏が、
ドイツのプラクティカとエクサクタには、
余り関わりたくなかったからではないかと推察しているけど、
1947年にスイスからアメリカへ移住してボルシーを創立していた、
アルパの元を作ったジャック・ボゴボルスキー氏との関りもあるかもしれない。


アルパ9dに付けた、アレファー180mm/f4.5  3群4枚 (1950年頃)と、
左に、アルギュラー135mm/f3.2 3群5枚 (1950年頃)。
これが、世界的にも由緒正しいオランダ製の望遠レンズ。


写真の作例は。いずれまた。





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最終更新日  2021.08.26 10:03:23
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