日本を代表する職業写真家の木村伊兵衛さんと命がけで信州の山と向き合い自然と対峙した田淵行男さんの写真
木村伊兵衛さんは1901年に東京市下谷(台東区)に生まれ、仕事の関係で台湾に居た頃からアマチュア写真クラブで頭角を現し日本に戻ってからは日暮里で写真館を開業していた。1929年のツェッペリン飛行船来日時のエッケナー船長のライカを見てライカを購入。以来,ライカ使いとして今更説明する事もないあらゆる分野で評価された日本を代表する写真家だった。日常をさりげなく切り取る演出の無い自然な作風は今見ても新鮮で色々と勉強させられることが多い。田淵行男さんは1905年に鳥取に生まれ、幼少期から昆虫採集に熱中して写蝶と称して細密画を書いていたらしい。家庭の都合で台湾に1年ほどいた事もあり、帰国後は東京の竜野川に住んだ。やがて高等師範学校に入学すると特待生となり博物学を学んでいる。1927年の夏休みにギフチョウの研究で岐阜を訪れ翌年には富山の旧制中学校で教鞭をとる。1930年頃になると山ガイドを通じて安曇野との関りが始まり東京の2つの学校の教諭を兼務していた頃には、生徒を北アルプスと近隣の山々に引率。1938年には本郷で写真学術社を興し、1943年には日本映画社に入社して教育用のスライドを制作したものの、東京下町の大空襲により1945年に家族と共に知人がいた安曇野の豊科町(安曇野市)に疎開。やがて常念岳のヒメギフチョウに出会い、希少なタカネヒカゲの幼虫を発見。以来、山岳や高山蝶に関わる写真などを発表していく事になる。常に山や生き物などの自然と向き合ってきたナチュラリストの田淵さんは、やはり山岳写真家のイメージが強いけどそのお陰で、今の安曇野は勿論の事、信州そのもののイメージを世間に知らしめた立役者でもある。その山岳写真家デビューのきっかけは、安曇野で理科教材のスライドを制作していた頃自作の山のアルバムが朝日カメラの編集長の目に留まった事で、それは1950年の45歳の時だった。翌年刊行された”田淵行男山岳寫眞傑作集”は日本の写真界に衝撃を与え、この分野に初めて芸術性をもたらしたと言われている。個人的には大分前になるけど、写真雑誌で田淵さんの写真を見ていた時にそれを撮影した撮影機材のデータに、テッサーの105mmf4.5や180mmf4.5というのを見て驚いた事があった。なぜなら既に日本ではテッサーは名前を変えてローコストのコンパクトカメラに使われているレンズであったので、最初にそれを一級のプロが使っている事に驚き田淵さんの山や草木に至るエネルギーに満ちた写真を見て、一瞬で”テッサー=古くて今ではアマチュア用の安物”という全く誤った思い込みが吹き飛んだ事がある。以来、大のテッサーファンであるけど、田淵さんの独特なコントラストの強いモノクロ写真には赤や橙のフィルターが使われていた。田淵さんは後に豊科名誉町民1号になりそれを引き継いだ安曇野市の名誉市民で、同地には田淵行男記念館が建てられている。左が新しく2024年3月9日にクレヴィスから発行された木村伊兵衛さんの写真集の”新版 木村伊兵衛 写真に生きる”。手元の本は4月の第2刷なので好評だったらしい。右が昭和49年9月30日に朝日新聞社から発行された田淵行男さんの写真集”麓からの山 浅間・八ヶ岳”。諏訪人には北アルプスよりも浅間と八ヶ岳の方が馴染み深い。ライカを手にしたブレッソン氏は大の写真嫌いだったそうだけど、同じライカ使いの木村名人の手に掛かれば、ご覧の通り。木村さんの写真には長野県に縁のある写真もあって、この上田でのスナップはこちらの頬も緩む。この写真集は今のデジタルアポ絶賛とは違う時代に作られた古き良き時代のライカレンズによる作例写真集でもある。これは田淵さんによる浅間山の噴火を捉えた写真。今では小諸を訪れても噴煙を確認できない方が多い浅間山も、かつては駅の待合室でガラスが震える程の噴火があったらしい。田淵さんの一文が緊迫した状況を伝えている。時々、大好きな小海線に乗って小諸や上田へ行く。諏訪からだと中央線の小淵沢で乗り換えるけど、そこから、のんびりとしたハイブリッドの高原列車による八ヶ岳高原の乗り鉄旅が何とも楽しい。最初は八ヶ岳の東南麓の別荘地の様な所をのんびりと抜けていたのが、やがて深い林の中に埋もれていくように進んでいき、こんな所に良く鉄路を敷いたものだと感心する位に千曲川上流の縁のギリギリの狭い所を走っていたりする。時々木の枝を車体に当てながら林の中を抜けると、やがて開けていき広大な畑が展開した景色に変化していく。その高原地帯の中心は名探偵コナンの映画で聖地になった国立野辺山電波天文台がありJRの標高最高地点である。ここは1982年に開所して世界最大級の45mのパラボラアンテナを備え、1994年にブラックホールの発見に寄与した天文台だ。畑の中を千曲川に沿いつつ時々鉄橋を渡って進んでいくと、左手に見えていた八ヶ岳が消えて民家が段々増えてくる。それから見慣れた街の景色が見えてくると学生さん達の姿が増えてきて、近代的なJR新幹線駅がある佐久平を抜けてから最後に終点でレトロ感満載の小諸に辿りつく。田淵さんによる往時の小海線の写真を眺めていると郷愁と共に八ヶ岳高原線列車の旅情を掻き立てられる。小海線の小海とは平安時代の八ヶ岳の水蒸気爆発で千曲川が堰き止められ大きな湖が出来ていたらしい。その後、大きな湖は決壊したものの一部が残り、鎌倉時代に入って来た人達によって小海と名付けられた。木村さんは良い写真を撮るコツはと聞かれて常にカメラを手放さない事と答えている。田淵さんは山岳写真について徹底的に追い込まれて酷い目に会う位じゃないとダメだというような事を見た記憶がある。