自分の根深い癖・・・
自分の根深い癖・・・それは誰にでもあるのではないだろうか?そして、真剣にその癖を何とかしたい!と思うこともある。でも、そう思ったとき、人はまた、別のジレンマに落ちる。自分が何とかしようと思うのだ。それは一見、当たり前のことのようだけど、本当に自分で自分が何とかなるのなら、すでに何とかなっている。何ともならないから、その癖はずっとそこにある。だからといって、何もしない、あるいはする必要がない、と言っている訳ではなく、ただ、変えようとする努力が、その癖を助長させることもあるかもしれない、むしろ、変わることを妨害していることもあるのかも知れない。癖を変えようとするとき、人はそれと闘ってしまう。それを良くないものと考え、それを取り除こうとする。ネガティブな想いは良くないので、やめなくては・・・こんな私の癖は悪いので、やめなくては・・・人は何かと闘うとき、自分のエネルギーは二つ、あるいはいくつかに分かれて向き合って対立してしまうので、結局は前には進めない。やめようとやっきになって闘っているものはますますそこに居座ることになる。だから、もう、闘わないで・・・力ずくで行われたことは成功した試しがない。それから、もう一つの迷いの道は「かわいそう」という自己憐憫・・・何てかわいそうな私・・・と被害者を演じると、何処かで加害者を作り、エネルギーは外へ漏れ始めるので、ずっと同じままで、いつまでもいられることになる。それは変わりたくないことへの絶好の方便となる。変わりたいとしたら、人は変わる。変わりたいのに、変われないと言うことはない。変わりたいのに、変われないというのは本当には変わりたくないと言うことを素直に認められない心のトリック。時間はかかるかも知れない。すぐには変わらないだろう。だって、そこにはたくさんのエネルギーを投じてきたからすでに道がついてしまっている。道路に出来たわだちのように、無意識になればすぐにそこにはまる。慣性の法則に従って、エネルギーは道のついたところを流れようとするから。変化・・・とは繰り返しのこと波のように、それは来ては去って、繰り返される。変容・・・それは繰り返されないもの一度理解されたら、それは決して後へは戻らない。一見、間違ったことのように見えるものでも、本当に間違ったものはなく、すべては何かのメッセージを携え、何かのメッセージを、伝えたくてやって来る。何かことが起こったとき、そのことを否定したり肯定したりするのではなく、そのことがどんなメッセージを携えているのかに耳を傾けると何か違ったものが見え始めるかも知れない。自分の中にあるどんな癖も、必要だったからそれがあった。だから、決して自分を責めないこと。そして、自分をかわいそうだと思わないこと。何度元に戻ってしまっても、笑って自分を許し、速やかに方向を修正するだけ。何度でも・・・何度でも・・・その上で、深く自分を、ただあるがままに見つめ続けると変容の瞬間が訪れるかも知れない。そうなったとき、人は生まれ変わっている。