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つれづれなるままに―日本一学歴の高い掃除夫だった不具のブログ―

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2004.05.16
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カテゴリ:詩論・文学論
たとえば。
「乾杯」という長渕剛さんの有名な詞があります。

♪固い絆に想いをよせて
語り尽くせぬ青春の日々

ではじまるこの詞は、ほとんど<詩>といっても差し支えないでしょう。最初の二行をみてもわかりますように、ともに「かた」ではじまる頭韻も見事です。もしこの詞が一番だけで終わっていたら、行わけの技術にもよりますが、自分は「これはまぎれもなく<詩>だ」と評価していたかもしれません。

けれども、この詞は二番に続き、語調的に一番とほとんど同じ構造をもって語りだします。
その内容が悪いというのではありません。自分はむしろ二番の方が好きです。

それでも。
これを<詞>ではなく<詩>として評価するとき、一番と二番の構造が同じである「必然的な理由」がなければなりません。これが<詞>であるのなら、音楽にのった調べだから、というだけで「理由」になるのですけれども。

おわかりでしょうか。

あるいは、定型からの脱出。
フォークソングが演歌という調べから「脱出」したもうひとつのフォーク(民謡)であったように、明治から大正、昭和、戦後を経て今日にいたる詩の流れも、文語や調べという定型からの「脱出」の歴史、定型から解放されるための新しい技術の開発の歴史でありました。

フォークは演歌というクサビから脱出しましたが、<詞>的な定型から完全に自由ではありませんでした。<詩>として評価するときは妨げになるような「リフレイン」(詩にリフレインが不必要だというのではありません。そのつけ方が問題になるのです)あるいは「サビ」というのがどうしてもついて回るからです。もちろん、それらが<詞>として必要不可欠なものであることは言うまでもありません。

さだまさしさんの「防人の詩」はいい<詞>です。ただ<詩>としては「定型」的で、ファンの方には申し訳ないのですが、自分にとっては物足りません。
自作詩「棒になった男」の表現を借りるなら、さださんは<詞人>界のボードレールではあっても、<詩人>の国のボードレールではない(*)、というのが偽らざる感想です。

(*)ただし、自作詩「棒になった男」でさださんをもちだしたのは主として音韻上の効果のためでした。さださんが一流の<詞人>であることは認めますが、ボードレールの世界とはまったく違うものです。

あるいは…。
中島みゆきさんは「地上の星」のなかでこのように語っています。

♪みんな何処へ行った 
見守られることもなく

この詞も非常に好きな<詞>なのですが、<詩>としては音楽に「流されて」いるところがあります。この部分は正確にいえば、

みんな何処へ行った~ 
見守られることもなく

ですね。しかしこれを詩として書くならば、

みんな何処へ行ったのか
見守られることもなく

としなければならないでしょう。「~」と「のか」の微妙な違いですが、詞と詩を別ける大きな違いです。中島さんの言葉が足りないのではありません。音楽という余韻のある詞に、「のか」はむしろ不必要なのです。
これは美学の問題です。

おわかりでしょうか。

長渕さんもさださんも中島さんも抜群の言語感覚を持っています。
ここで書く余裕はありませんが、他のシンガーソングライターの方々もそうでしょう。
けれども彼らの<し>は基本的に歌う<詞>です。書く<詩>ではありません。

自作の未熟さ、拙劣さを棚にあげて申し上げます。歌うために書いている<詞>を、<詞>として鑑賞するのではなく<詩>として評価しようとすると、どうしても自分には、ツメのところで自らのメロディや調べに「流されている」「甘さ」が気になります。

結局自分にとって、歌から離れようと離れるまいと、稀有な例外をのぞいて<詞>はどこまでいっても<詞>なのです。
<詞>を<詩>として捉え、文字だけを生業とする<詩人>によって彫心鏤骨された<詩>と比較すると、どうしても見劣りがします。
これは審美観の問題です。

おわかりでしょうか。

<詞>は<詞>のままでいいのです。<詩>と同じ土俵にあがることはないのです。
<詞>は<詞>のままで<詩>に対峙し、屹立するちからがあるのですから。
<詞>のままでいれば、<詩>の側から「流されている」「甘い」「見劣りがする」などと評価されることもないのですから。


「みんなちがって、みんないい」

これは感覚の問題です。やや自虐的に言うなら、純情さを失ってスレてしまった毒者の感覚の問題かもしれません。ですから、自分はここで納得を求めるのではありません。
――理解はするが支持できません。
そう、それで結構でございます。

ご清聴ありがとうございました。





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Last updated  2005.02.21 21:16:43
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