カテゴリ:銀輪万葉
今日は奥琵琶湖銀輪秋逍遥です。京都から永原へは敦賀行き新快速で1時間数分。
先ず、大浦にある「丸子船の館」に立ち寄ることとする。
丸子船というのは、二つ割にした丸太を胴の両側に取り付けた琵琶湖独特の船にて、北陸と京、大阪とをつなぐ湖上水運に活躍した。最盛期の江戸時代には、1400隻が湖上を往来していたとのこと。展示されているのは現存する2隻のうちの1隻だそうな。と申し上げてもイメージしにくいでしょうから、館内展示のジオラマ(下掲)をご覧下さい。 大浦から菅浦へと自転車を走らせる。湖面を渡り来る風は秋風にて冷んやりと肌に心地良い。沖には竹生島も見えている。岸辺に立てばさやさやと寄せる波の音。水は澄み、人影絶えて閑寂な秋の風景。しばし、写真でそれをお楽しみ下さいませ。
ヒガンバナも今を盛りと咲いていました。琵琶湖に花はよく似合う。 北淡海 花こそ似合へ 寄す波の 彼岸花にはクロアゲハでしょうか、蝶が遊びに来ています。 金色の 稲田のさきの にほの海
大浦からは半島の陰になって見えなかった竹生島が見えて来る。間もなく菅浦の里である。 菅浦の集落が見えて来た。浜辺の小舟の上で何やら作業をしている麦藁帽子の男性。こういうものも絵になってしまう長閑な風景である。
琵琶湖パークウェイとの分岐を右に行くと菅浦の集落である。入口に茅葺の小さな門がある。昔はこれが集落の入口であったのでしょう。 菅浦は葛籠尾崎の半島の西側小湾入部にへばりついたようにしてある小さな集落。かつては陸の孤島とも呼ばれたそうだが、今は琵琶湖パークウエイが開通していてそういうこともない。それでも、集落に入ると今尚別の時間が流れているような不思議な気分になる「隠れ里」ではあるようだ。 村にある須賀神社には淳仁天皇が祀られている。これは天平宝字8年(764)藤原仲麻呂の乱後に帝位を剥奪された淳仁が行在したという伝説によるらしい。孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡に政治の実権が移ってゆくことに焦った仲麻呂が権力を自己に取り戻すべく孝謙の排除を目論んだのが「仲麻呂の乱」であるが、仲麻呂に擁立された天皇である淳仁としては、この乱に際してどっちつかずの立場をとるしかなかった。そのことで孝謙の怒りを買い、乱後に廃帝となり淡路島に流される。淳仁は淡路で没したとされ、宮内庁が淳仁天皇陵とするものも淡路島にあるのだが、この地ではそうではないらしい。須賀神社の本殿はその石組の形から舟形御陵と呼ばれ、淳仁の御陵とされているのだから。 参道の坂道を登って行くと石段があって、これより先土足禁止とある。かくてヤカモチも靴を脱いで石段を登って行くのでありました。
須賀神社の参道の途中に菅浦郷土資料館がある(日曜日のみ開館)が、その前庭に万葉歌碑がありました。 高島の あどのみなとを 漕ぎ過ぎて (高島の阿渡の港を漕ぎ過ぎて、塩津菅浦の辺りを今頃は漕いでいるだろうか。) 鎌倉時代から明治初期にかけて作られた村落や漁村生活を記録した「菅浦文書」(全65冊)がのこされていて、菅浦郷土資料館に保存されている。 字数制限です。続きはまた明日です。 <追記・注>
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