カテゴリ:万葉
昨日(7日)、囲碁例会に行く途中、心斎橋近くの三津寺、高麗橋、天満橋と回ってから、梅田スカイビルに向かいました。随分と遠回りしたことになりますが、これはブログ取材のためでありました(笑)。 応神天皇の墓所跡に、聖武天皇の勅命により、行基が創建したのが始まりで、本尊は十一面観音にて秘仏となっている、などと説明されています。 古代にあっては上町台地の直ぐ西側に海が広がっていたのであるから、三津という名が残るこの辺りに難波津があったというのは極めて素直で肯ける説である。 難波津を 漕ぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲そたなびく 難波津に み船下ろ据ゑ 八十梶貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ おしてるや 難波の津ゆり 船装ひ 我は漕ぎぬと 妹に告ぎこそ 次は高麗橋付近説に従い高麗橋へ。高麗橋は東横堀川に架かる橋。大阪証券取引所のある北浜の近くである。 ●霧が出たら私が泣いていると思って。 君が行く 海辺の宿に 霧立たば 我が立ち嘆く 息と知りませ ●恰好つけずに早く帰って来て。 大船を 荒海に出だし います君 つつむことなく はや帰りませ ●ずっと私の衣を身に着けてるのよ。 別れなば うら悲しけむ 我が衣 下にを着ませ 直に逢ふまでに ●塩断ちして待ってます。 栲衾 新羅へいます 君が目を 今日か明日かと 斎ひて待たむ 最後は、天満付近説ですが、天満橋を、上流の人道橋付近から撮ってみました。 わが衣 人にな着せそ 網引する 難波をとこの 手には触るとも 長屋王の死によって藤原氏の力が圧倒的なものとなる中で、藤原房前に琴を贈るなどして、太宰府からの帰京と大納言昇進を果たしたような感が否めない大伴旅人であるが、この時はさぞ上機嫌であったのだろう。しかし彼は翌731年7月25日死去していることを思うと、人生のはかなさを感じざるを得ません。 大伴の 御津はいづこと 銀輪を 駆けてをちこち 朦朧家持 (偐家持) 大伴家持の歌は朦朧体と言われるが、三説いづれとも決めぬ曖昧さこそ家持には相応しいのでありますな(笑)。
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