(承前)
「万葉の森」は全国各地にあるようだが、「千葉の森」は、多分、千葉県にしかないのでしょうね(笑)。
「春山の万花の艶」と「秋山の千葉の彩」とのどちらが優れているかと問われて、額田王が「秋山われは」と詠った(巻1-16)のは有名でありますが、この故事・歌が、「万葉集」という名の由来だという説もあったりします。これが正しいなら、「万花千葉集」という名が本来ということになるが、万(よろず)言の葉の集、の方が自然な説でしょうな。この類の議論は何であれ水かけ論であります。
で、先ず、花です。
万葉人は「萩」とか「梅」とか、小振りの花が好みのようであり、次の花、ミゾソバなんぞは、その基準から言えば「合格」だと思うが、勿論、万葉には登場しない。尤も、ミゾソバはタデ科の植物ゆえ、タデなら万葉植物ということになりますが、ちと、無理筋ですかな。
(ミゾソバ)
(同上)
<参考> ミゾソバ Wikipedia
ミゾソバは湿地に生える。直ぐ近くにはシダが群生。ワラビもゼンマイもシダ植物であるが、シダというのは植物分類で言えば門に当る項目にて、界、門、綱、目、科、属、種と、馴染みの「科」よりも3段階も上の括りですから、シダ植物が色々あるのは当たり前ですな。
これを、シダだからと蕨に見立てて、万葉植物とするのは、ミゾソバ・タデのそれより無茶苦茶なことでしょうね。
(シダ)
万葉の森なのに、万葉と無関係のものに何故か目が向いてしまう。ホルトの木、ヒメシャラも同様でありますな。
(ホルトの木)<参考>ホルトノキ Wikipedia
とりわけ、ヒメシャラは赤味の帯びた光沢のある幹が目立って、目を引くのでありました。
(ヒメシャラ)<参考>ヒメシャラ Wikipedia
ようやく万葉歌にも登場の桂の木です。
(カツラ)<参考>カツラ Wikipedia
向つ岳の 若かつらの木 下枝取り 花待つい間に 嘆きつるかも
(万葉集巻7-1359)
<向うの丘の桂の若木の下枝を手に取って、花を待っている間に、
何度も嘆いたことだ。>
もみちする 時になるらし 月人の かつらの枝の 色づく見れば
(万葉集巻10-2202)
<木々が黄葉する時になったようだ、月の男がかざす桂の枝が色付
くのが見えるので(「月が美しいので」という意味でしょう。)。>
美しく黄色に染まるのは少し先のようであるが、それでも、色付き始めた桂を下から見上げ、葉を日に透かして見ると美しさがひと際増す。
カツラには「をかつら」「めかつら」があり、をかつらには楓の字、めかつらには桂の字を当て、一般に「かつら」と言えば「をかつら」のこと、というのが平安の頃であったそうな。つまり、楓は「かつら」であったという訳で、またまたややこしい。
太陽には金の烏が住み、月には玉兎が住む、という伝説のことは以前にも触れたが、中国には月には桂の木があるという伝説もあったそうな。勝利者に月桂樹が授けられるのはこれに因むものである。秋になると月の桂も黄葉する。それで、秋の月は美しいのである、という訳である。古今集に次のような歌がある。
久方の 月の桂も 秋は猶 もみぢすればや 照りまさるらむ
(壬生忠岑 古今和歌集巻4秋歌上194)
(同上)
万葉の森を出た古池畔の小道にスズメウリが生っていました。
(スズメウリ)
雀羅さへ 張る人もなき 万葉の 森の小径に 雀瓜ひとつ
(偐家持)
(注)雀羅(じゃくら)=雀を捕る網のこと。「門前雀羅を張る」は、門前
に雀が多く集まり、網を張って捕まえるこが出
来る程に、訪れる人もなくさびれている、という
意味。ここでは、その雀すらも姿が見えない、
という意味で使いました。
これにて万葉の森逍遥は完結です。他愛も無いお喋りにお付き合い下さり、有難うございました。