<承前>
長等公園から更に坂道を上って行くと小関越えで、京都府に入る。一昨年の9月に京都駅から小関越えで近江へと自転車でやって来たことがあるが、その折には長等公園(京都側から見て、右)の方には下らず、(京都側から見て、左)長等神社の方に下りました。
<参考>京都から唐崎へ(3) 2011.9.12.
京都から唐崎へ(4) 2011.9.12.
どんどん上って行くとその小関越えの道に出るのでしょうが、今回は桜広場から山を下ることとし、逢坂方向への道を行くことに。国道1号線に出て、唐橋方向へ走るためである。
その前に、展望台から琵琶湖を眺めて置きましょう。
(長等公園桜広場展望台からの眺め)
写真の左に突き出しているのが柳が崎である。先程までそこに居たのであるから、かなり上って来たことになる。その更に左側奥に遠く見えているのが「さざなみの志賀の辛崎さきくあれど・・(万葉集巻1-30)」の唐崎であろう。
(桜広場から上栄町駅・逢坂方面への下り道)
この山道を下ると山裾を廻る舗装道路に出る。その道を右に進むと逢坂。浜大津から上って来る道と国道1号線が出会う地点に出る。そのまま国道1号線を辿れば逢坂の関跡を経て京都・山科へと至るのであるが、ゆくもかへるも、しるもしらぬも、は蝉丸さんに任せて、ヤカモチは逢坂の関とは反対方向、東へと国道1号線を下る。
JR膳所駅の先の西の庄地区にある石坐神社と法傳寺を目指して走る。道はゆるやかにカーブして膳所駅の先辺りからはほぼ南向きに進むこととなるが、その辺りで左に入り、JR線を渡り、西の庄地区に入る。
先ず見付けたのが石坐神社。
(石坐神社)
(石坐神社)
神社の祭神は、湖国らしく主神は綿津見であるが、大友皇子とその両親である天智天皇、伊賀采女宅子娘も祭神になっている。下掲の由緒にある通り、当社にはこの3人の平安期制作の木像坐像が神像として伝わっているのでありますな。
(石坐神社由緒)
(同上)
(本殿)
(本殿)
(本殿説明板)
石坐神社から100mほど西に法傳寺という寺がある。
この寺の住職さんは大友姓で大友皇子の子孫だそうな。
大友皇子の子の与多王は、大宝元年(701年)に出家し、法傳寺の前身である一乗院円明寺の第5世住職になったのだという。法傳寺の山号は粟陵山であり、その意味はこの地・粟津の御陵という意味で、寺の南方1km程の位置にある茶臼山古墳が大友皇子の御陵で、それを指しているのだそうな。
明治政府は、長等山麓の塚を大友の墓(弘文天皇長等山陵)としたが、地元では茶臼山古墳を大友の墓としていたようだ。まあ、墓は遺体が埋葬されていようがいまいが、そこを墓と考える人がいれば、そこが墓である、という小生の考え方に従えば、長等山でも茶臼山でもどちらでもいいし、両方とも墓であってもいい、ということになるから、この問題には立ち入らないこととします(笑)。
(法傳寺)
(法傳寺)
ということで、次の行き先は茶臼山古墳ということになりました。再び国道1号線に戻り、国道を渡って坂を上って行くと茶臼山古墳という石碑が目に入りました。
(茶臼山古墳)
古墳の墳丘上には神社があるらしく、鳥居がある。秋葉神社とある。大友皇子とは関係がないですな。
秋葉神社の社殿の奥、前方後円墳の後円部の墳丘上に5つの塚があり、その一つが大友皇子の塚であると伝えられている、と「葬り塚」と題した説明板には書いてある。
もっとも、教育委員会作成の説明板では4世紀末~5世紀頃に築造の古墳とあるから、この古墳が大友の墓である訳はない。この古墳の墳丘上に村人達が大友皇子たちの亡骸をひそかに葬った、ということなら、話として矛盾はないこととなる。しかし、どなたかは存じ上げぬが、この古墳に眠っている墓の主からすれば、「何をしてくれるのだ。」でしょうな。
(茶臼山古墳平面図)
(茶臼山古墳説明板)
(茶臼山古墳・秋葉神社参道)
(葬り塚説明板)
(秋葉神社)
上の写真の秋葉神社の社殿の横を通って奥に進むと塚がある。塚と言っても、大きな木の回りに石が正方形に並べられているだけのものである。
(大友皇子の墓と伝えられる塚)
これが大友皇子の墓。その右後に見えているのが与多王の墓。墓の前に立っている白い棒状のものには「法傳寺」と記してある。法傳寺さんが供養されているのですな。まあ、ご住職の大友さんが大友皇子の子孫なら御先祖の墓ですから、当然のことではあります。
大友皇子の首は、切り取られ、大海人側の将、村国男依によって、関ヶ原の野上行宮の大海人皇子の許に運ばれ、首実検の後、その地に葬られたという話もあるから、それが事実なら、ここが墓だとしても首から下の胴体だけが葬られているということになる。
首の方は関ヶ原の藤下地区の若宮八幡宮の裏山の自害峯に葬られているというから、次回は関ヶ原に銀輪散歩に出掛けるか、など思いつつ、墓を後にしたのでした(笑)。
(与多王の墓と伝えられる塚<左側>)
本日はここまでとします。
次回は、大友皇子を祀る御霊神社へと参ります。(つづく)