カテゴリ:銀輪万葉
<1月10日(1)> 本日は福岡県筑紫野市の二日市温泉の宿からです。 駅に降り立って出迎えてくれたのは、万葉歌碑ではなく、野口雨情の歌碑でありました。 山ぢゃ天拝月見の名所 月見とも観梅とも無縁の冬の旅とあっては、共通するのは「武蔵の温泉泊り」という部分だけですな。 建物の前の説明板(注:1月10日(2)の記事に写真掲載)によると、二日市温泉は、白雉4年(653年)武蔵寺の創建者・藤原登羅麿が薬師如来のお告げにより開いたとされ、万葉集にも詠われた歴史ある温泉です、とある。「薬師の湯」とか「武蔵の湯」とも呼ばれたのはこれに由来するのですな。万葉集では大伴旅人の歌(巻6-961)の題詞に「帥大伴卿、次田の温泉に宿りて」とあるが、それが二日市温泉のことだと言われている。そう言えば、先程渡って来たJRの踏切が「次田踏切」と表示されていました。 湯の原に 鳴く芦田鶴(たづ)は わがごとく 妹に戀ふれや 時わかず鳴く 大伴旅人は神亀3年(726年)または同4年(727年)に大宰帥に任命され赴任している。ところが、神亀5年(728年)妻・大伴郎女を病で亡くす不幸に見舞われる。そして、翌・天平元年(729年)長屋王の変で、長屋王が自殺に追い込まれる。皇親派の大伴氏であるから、旅人にとってもこれは青天の霹靂であったことだろう。そんなこともあって体調を崩したかどうかは分からぬが、天平2年(730年)6月、足に腫物が出来て悪化、重病となる。この時に、弟の稲公や甥の古麻呂を九州に呼び寄せているから、旅人は死をも覚悟したと考えられる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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