本日は囲碁例会の日。いつものようにMTBで梅田スカイビルまで銀輪散歩。今回は難波八阪神社に立ち寄ってから梅田スカイビルに向かいました。
難波八坂神社に寄り道した理由は、万葉歌碑の本を見ていて、この神社の境内に戦艦陸奥主砲抑気具記念碑があり、その台座に、大伴家持の「海ゆかば~」の歌が刻まれているということを知ったからであります。
(難波八阪神社・東鳥居)
難波八阪神社は難波元町2丁目交差点の西側一つ目の辻を南に入った処にある。上の東側鳥居から境内に入りましたが、これは勝手口のようなものにて、正面の鳥居は南に面している(写真下)。
(同上・南鳥居)<参考>難波八阪神社公式ホームページ
(同上・拝殿)
東鳥居から入ると目の前に現れるのは巨大な獅子頭。まあ、東から境内に入る方がインパクトがあって面白い。
(同上・獅子舞台)
(同上・篠山神社)
(同上・篠山神社由緒)
本殿・拝殿の東側に戦艦陸奥の記念碑がありました。
記念碑の頭頂部に置かれている丸い物は、戦艦陸奥の主砲八門のうちの一つの砲の先端に装着されていた天蓋(砲口蓋、これを「抑気具」と言うらしい。)である。
(戦艦陸奥主砲抑気具記念碑)
台座に刻まれた大伴家持の歌の一部とはこれでした。
(同上・台座歌碑)
これを「万葉歌碑」と言っていいのかは疑問。大伴家持の長歌の一部を取った「軍歌・海ゆかば」の歌碑と言う方が適切かも知れない。
大伴家持の万葉歌(巻18-4094)は、大仏建立のためには大量の金を必要とする処、陸奥の国で金山が見つかり、それを喜んだ聖武天皇が詔書を出し、その中に大伴氏などの名を挙げて、その忠節を讃えた文言があったことから、これに感激した家持が作ったものである。
天皇が詔を出したのが天平21年(天平感宝元年)(749年)4月1日で、越中守であった大伴家持がその詔のことを知ったのは随分の日数が経ってからであったのでしょう、歌は天平感宝元年5月12日に作られている。時に家持32歳である。
軍歌「海ゆかば」は、長歌に引用された大伴氏の言立て(家訓)の部分である。
その長歌全文及び現代語訳はコチラ(海ゆかば・Wikipedia)をご参照下さい。反歌3首は上記のWikipediaには記載されていないようなので、下に記して置きます。
大夫(ますらを)の 心思ほゆ 大君の
御言(みこと)の幸(さき)を 聞けば貴(たふと)み
(大伴家持 巻18-4095)
<ますらをの勇ましい心が思われる。天皇のお言葉の幸いを聞くと尊いので。>
大伴の 遠(とほ)つ神祖(かむおや)の 奥津城は
しるく標(しめ)立て 人の知るべく (同 巻18-4096)
<大伴の遠い祖先神の墓は、はっきりとしるしを立てよ。人々にわかるように。>
天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東(あづま)なる
陸奥(みちのく)山に 黄金(くがね)花咲く (同 巻18-4097)
<天皇の御代が栄えるだろうと、東国の陸奥の山に黄金の花が咲くことだ。>
難波八阪神社を出て目に入った「ひまわり」という喫茶店で昼食。昼食後四ツ橋筋を北上。梅田スカイビルの会場に行くと福〇氏が既に来て居られました。早速同氏と1局。十数目の大差で小生の勝ち。対局中に来られた平〇氏と続いて対局。これも中押しで小生の勝ち、で2戦全勝。今日はこの3名のみの出席で対局はこれまで。福〇氏と平〇氏の対局を観戦。数目差で福〇氏の勝ち。これで、今年の通算成績は20勝17敗となりました。
帰途は何処にも立ち寄らず(花園中央公園には立ち寄りましたが)に自宅直帰。