本日は、宇陀市榛原の額井岳山麓と広陵町の百済寺と飛鳥川自転車道などを銀輪散歩して参りました。
若草読書会の新年会が来月7日にありますが、毎年新年会は偐家持が万葉関連のお話をすることになっていて、今年は山部赤人の歌を取り上げようと思っています。
ここ数年のテーマは以下の通りで、そろそろ山部赤人かな、と思った次第。
2009年 大伴家持
2010年 菟原處女
2011年 柿本人麻呂
2012年 但馬皇女と穂積皇子
2013年 大友皇子
2014年 山上憶良
2015年 大伴旅人
大伴家持は、万葉集の中で、和歌の道のことを「山柿の門」と呼んでいるが、「柿」は、人麻呂のことでほぼ異論ないよう。問題は「山」。山上憶良説と山部赤人説とがある。古今和歌集の仮名序では紀貫之は人麻呂と赤人を挙げて論じているので、少なくとも紀貫之さんは、赤人説であったようですな。
ということで、人麻呂、憶良は既に取り上げているとなれば、赤人も取り上げないと平仄を欠くということになります。
山部赤人は万葉第三期の歌人で、山上憶良や大伴旅人や高橋虫麻呂などと同時代人と思われるが、続日本紀などの正史には記述がなく生没年などは不明である。万葉集に掲載の彼の歌やその題詞から推測するしかないという次第。
その赤人の墓が宇陀市榛原にある。正確には、「伝赤人墓」である。千葉県東金市にも赤人塚なるものがあるそうだが、これはちょっと取材に出掛けている暇がないかもです。東近江市にも山部神社、赤人寺があるので、これは近いうちに取材に行く予定でいます。
さて、榛原の赤人墓であるが、これは何度もこれまで訪ねているので、写真があるものと思っていたら、PCやフォト蔵などのマイアルバムを探しても見付からない。そんなことで、本日トレンクル君をお伴に出掛けることとしたのでありました。
その墓なるものは、近鉄榛原駅北東の額井岳の麓にある。榛原駅からは、どのコースを辿っても辛き坂道となる
(額井岳)
赤人墓に立ち寄る時はいつもその前に十八神社に立ち寄っている気がする。で、今回も立ち寄って行くことに。というよりも、境内で暫し休息なのである。
(十八神社)
(同上・拝殿と本殿)
(同上・由緒<左>と本殿<右>)
十八神社はかなりの高みにあるので、境内からの眺望もなかなかに宜しい。
(同上・境内からの眺め)
(山部赤人墓付近)
もう随分昔のことになるが、休日に此処にやって来て、赤人墓の前の東屋で休憩しているということがありました。誰かがやって来る声がしたので、その方に視線をやると、何と、それは入社同期で親しくしていた友人・S君であった。彼は当時この近くの「ひのき台」という団地に居を構えていて、奥さんと息子さんを伴っての散歩の途中であったのでした。それにしても、人の気配も絶えたこのような場所で、会社の友人に出逢うとは思いもよらぬこと。互いにその偶然を面白がったものであった。
しかし、S君も今は故人。その何年か後に病を得て、帰らぬ人となってしまった。此処に立つと決まって彼の事があれやこれやと思い出されるのでもある。
(山部赤人歌碑)
あしひきの 山谷越えて 野づかさに 今は鳴くらむ うぐひすのこゑ
(山部赤人 万葉集巻17-3915)
(注)野づかさ=野の小高い場所、高み。
(山部赤人墓)
赤人は官位の低い(六位以下の)下級貴族であったと思われる。従って、墓の場所などは知るよしもないこと。されば、此処を墓としてもよい。
そもそも、墓と埋葬場所とは一致している必要もないのだから。
(同上)
榛原駅まで戻り、大和八木経由笠縫駅下車。
もう一つの赤人歌碑を訪ねての銀輪散歩です。
(近鉄・笠縫駅)
笠縫駅から西へ。飛鳥川、曽我川を渡り、田原本町から広陵町に入る。
(曽我川・上流側<左>、下流側<右>)
百済寺という古寺がある。
重要文化財の三重塔のある、いい雰囲気の古寺である。
(百済寺)
(百済寺三重塔) (百済寺説明板)
三重塔の傍らにある万葉歌碑がその赤人歌碑である。
犬養先生揮毫の碑、犬養万葉歌碑でもある。
(山部赤人歌碑)
百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鴬 鳴きにけむかも
(山部赤人 万葉集巻8ー1431)
(百済寺周辺地図)
百済寺は春日若宮神社と同居です。
(春日若宮神社)
飛鳥川自転車道に戻り、北へと走る。
(飛鳥川自転車道)
(同上)
(同上・船つき橋)
(「但馬のはま」)
大和川を渡り、大和郡山市に入り、近鉄・大和郡山駅で、銀輪散歩打ち切り。トレンクルを収納バッグに。電車にて帰途へ。
赤人関連の地、二ヶ所の取材完了です(笑)。