昨日(21日)は、古くからの友人(と言っても大先輩であるが)である画家・家近健二氏の個展に出掛けて参りましたので、その紹介です。
「家近健二個展(燈台、山、卵、花・・そして出会いたい風景などなど)」という案内ハガキを頂戴したのは先月の下旬のこと。会期は9月16日~21日であったが、所用や台風絡みの雨などの所為もあって、漸く最終日の21日になってお伺いすることが叶いました。
氏のお孫さんの「りんごさん」が通りがかりで当ブログの2012年9月26日記事「殉展そして近隣散歩」を見付けられてご訪問下さり、コメントを戴くという愉快なことが先月29日にあり、そのコメントでもこの個展のご案内がありましたので、これはもう是非ともお訪ねしなくてはならなかった、というものであります。
会場は、上本町6丁目の上本町ギャラリー。
銀輪家持、この日も足はマウンテンバイクでありました。自宅から会場までは自転車で40分余程度である。午前10時からの来客の応接を済ませた後、11時過ぎに自宅を出発、会場のあるカリヨンビル前到着が11時45分頃。隣のパチンコ屋さんの駐輪場に自転車を駐輪させていただき、ビル1階のレストランCARILLONで昼食を済ませて、会場へ。
(上本町ギャラリー) (アプローチ階段)
家近氏からの案内状には「上町台地にあって、文化の発信源でありつづけている上本町ギャラリーが、この秋(11月)をもって40年の歴史に幕をおろそうとしています。」とあり、ここでの同氏の個展はこれが最後となります。そういうこともあってか、それとも氏ご自身の別なる思いがあってのことかは存じ上げぬが、アプローチ階段を上がりかけて目に飛び込んで来たのは、「生前葬」と言う名の個展、という文字と旧約聖書・ヨブ記の言葉。ヨブが自分の息子、娘たち全てが死んでしまったことを知った時に神に向かって言った言葉。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」
キルケゴールは、その著作「反復」の中で「ヨブよ、ヨブよ!おお、ヨブよ!あなたは、あの美しい言葉のほかに、『主があたえ、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』という言葉のほかに、ほんとうになにもいわなかったのですか。あなたは、七日七夜のあいだなぜ黙っていたのですか。」(9月19日の項)と書いていることなどを思い出しながら、突然のことなので、どう身構えてよいのやらも定まらぬまま、「生前葬」の会場へと向かいました(笑)。勿論、供花、香典の用意もない(笑)。
会場内は、色彩の氾濫。様々な絵が所狭しと並べられていました。
撮影してもよいか、会場に居られた家近夫人にお尋ねすると、「どうぞ、どうぞ。」ということであったので、やたらシャッターを切りまくりました。
家近氏は、次々とご来場になる皆さんへの応接に取り紛れて居られましたので、ご本人の許諾を得て居りません。著作権法上は、いささか問題ありということになりますが、偐万葉風見切り発車であります。
会場の雰囲気をお伝えすべく、ランダムに写真を並べることとします。
家近氏は「何と言ってテーマもないのがテーマ。雑多に並べてある。」というようなことを仰っていましたが、「生前葬」にテーマなどあるべくもない、と言うものでしょう。生前葬と言うに不謹慎に、小生も雑多に撮影することとしたのでありました。
以下、個別の作品の写真を並べてみます。作品番号は、小生が写真を撮った順番の番号で意味はありません。それぞれの絵にタイトルなども付されていませんので、絵を解釈する手掛かりもありません。
そもそも、絵は「解釈」するものではなく「感じる」ものなんでしょうから、タイトルなどというものは本来は不要なんでしょうが、絵画展などに出展する場合にはタイトルを付すことが必要なようです。審査員の先生方の「解釈」を容易にするために必要なのかとも思いましたが、審査員同士で絵の評価の意見交換をするときなども絵に名前が付いていないとややこしくなるという実務上の必要性ですかね。
(作品1)
小生の目を惹いたのは、この絵。
落ちた帽子を拾おうとしているのか、身体を前屈したら帽子が脱げ落ちたのか、或は祈りの所作であるのだろうか。老人の窮屈そうな身体の動きが何やら気になりました。これでは絵の鑑賞ではありませんですな(笑)。
(作品2) (作品31)
左は自画像でしょう。生前葬だから「遺影」とは言わない。「現影」ですかな。
右の少女は何となく家近夫人の面影に似ていますから、お嬢さんの幼い頃、或はお孫さんの幼い頃の面影を重ねて居られるのでしょうか。幼くして亡くなった野花ちゃんのことなども思い出される絵でした。
次は家近氏らしいモチーフの絵。
卵の絵をよく描かれるが、卵や卵的なもの、卵のような形というのは氏の絵にとっては重要なモチーフのようです。
(作品30) (作品21)
(作品22) (作品17)
(作品19) (作品10)
(作品11)
灯台の絵が多いのが今回の個展の特長でしょうか。
「灯台の絵が多いですね。」と申し上げると、抽象芸術的なものでは親しみを感じにくいだろうから、より多くの人に親しみを感じて貰うための絵である、というような趣旨のことを仰っていましたが、お説の通り、小生などはこういう絵の方がいい。
しかし、氏の遊び心は、これを普通のカンバスに描くのではなく、戸板に描くという処に現れている。一種の襖絵となったり、屏風絵となったりもするのである。
(作品3)
(作品12) (作品8)
(作品34) (作品23)
(作品5)
(作品29)
(作品4) (作品6)
単なる景色では飽き足らず、何やら霊のように浮かび上がる像。景色が現実なのか、人物が現実なのか、それは見る人の感じ方次第。
(作品20) (作品27)
こういう絵を見ていると、能を連想する。
シテは決まって幽霊であり、この世のものではない。
芸術というのは、夢想・幽界と現実がないまぜになった世界・「あはひ」で成立しているように思うから、両者をどのように組み合わせ繋ぎ、そこに独自の意味・世界観や独自の感じ・雰囲気を表出し得ているかが、創作の妙ということなんでしょうが、創作は他者への発信でもあるから、見る側の共感というものも大切ですな。
(作品24) (作品25)
京の町家の空に白狐。越後の村上でしょうか。降り積む雪の道行く人影の頭上に巨大な鮭。こういう絵も好きですな。
(作品16)
これは何処のお寺でしょう。東西に塔があるから當麻寺でしょうか。
門にうずくまっている人影は旅の僧侶でしょうか。
となるとますます「能」のそれでありますな。
ワキ「これは旅の僧にて候・・」
(作品13) (作品32)
光琳、北斎、若冲などを想起する絵。絵からはみ出した鯛。恨めしそうな擬人化された目が諧謔であることを告げていますが、こういう絵も色々にもの思わせて楽しいですな。
次は、花の絵。
(作品14) (作品15)
(作品33) (作品7)
(作品9) (作品26)
(作品18) (作品28)
額のガラスに反射して、撮影者である小生の姿や天井の照明灯が写り込んだりして、お見苦しい写真もあったかと存じますが、それは撮影条件の悪さにて、撮影者のカメラワークの所為ではありませぬ故、ご寛恕賜りますように。
帰途は、布施のヒバリヤ書店に立ち寄って、若草読書会用の買い物を済ませ、八戸ノ里駅近くまで帰って来た処で雨。雨具の用意はしていましたが、ザックから雨具を取り出して着るのも面倒と若江岩田駅近くで喫茶店で雨宿り。小止みになってから再出発。午後4時頃の帰宅となりました。
<参考>中之島の後、心斎橋ー油絵個展 2009.5.25.
ガリラヤの風 2011.11.30.
殉展そして近隣散歩 2012.9.26.