銀輪散歩の途中、日下の原始蓮の池に立ち寄りました。ブロ友の☆もも☆どんぶらこ☆さんが先日、この原始蓮をブログに掲載されているのを見て、当ブログではこの蓮のことを正面から取り上げたことがなかったことに気付いたからでありました。古事記の雄略記に「日下江の入江の蓮 花蓮~」という歌(下掲<参考>参照)が登場することから、古代からこの地は蓮の花が咲く沼沢地が広がっていたということがうかがえる。
1936年(昭和11年)東大阪市善根寺七軒家北側にあった大井路の水路に自生していた蓮をハスの研究家の大賀一郎博士に鑑定を依頼して調べていただいたところ、原始的なハスであろうということになり、「原始蓮」と呼ばれるようになったのがこの蓮である。戦後、昭和20~25年頃には大量発生したアメリカザリガニによって絶滅したとみられていたが、生き残っていた株が発見され、これを地元の方が保護・育成し、現在に至っている。「枚岡の原始蓮」として大阪府の天然記念物にも指定されている。
(原始蓮の下池)
(原始蓮)
(同上)
(原始蓮の碑と原始蓮)
下池から坂道を上ったところにも小さな蓮池があって、其処には古事記歌謡の歌碑も建立されている。以下の蓮の花はその上池の方に咲いていたものです。
(同上)
(古事記歌碑)
この歌碑は以前のブログ記事にも取り上げていて、その時の写真の再掲載です。
<参考>歌碑写真掲載の記事は下記です。
旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋 2013.2.22.
歌碑の歌の解説は下記の記事にあります。
銀輪万葉・藤井寺界隈(続) 2009.11.23.
日下江の入江の蓮の歌にまつわる古事記のエピソードは上の参考記事「銀輪万葉・藤井寺界隈(続)」にても紹介していますが、今日はその部分の古事記全文を<参考>として掲載しようと試みましたが、掲載制限文字数オーバーで拒否されてしまいました。
ということで、ルビを漢字の後ろに括弧書きする方式にすると字数制限内に入りました。読みにくいかと思いますが、是非に及ばず、である。
<参考>
亦(また)、一時(あるとき)、天皇(すめらみこと)遊行(あそびま)して美和河(みわがは)於(に)到(いた)りたまひし時、河の辺(へ)に衣(きぬ)洗ふ童女(をとめ)有り。其の容姿(かたち)甚(いと)麗(うるは)し。天皇(すめらみこと)其の童女(をとめ)を問ひたまはく、「汝(いまし)者(は)誰(た)が子ぞ。」ととひたまふ。答へて白(まを)さく、「己(おの)が名は引田部赤猪子(ひけたべのあかゐこ)と謂(い)ふ。」とまをす。しかして、詔者(の)ら令(し)めたまはく、「汝(いまし)嫁夫(とつ)が不(ず)あれ。今(いま)喚(め)して将(む)。」とのらしめたまひ而(て)、宮於(に)還(かへ)り坐(ま)しき。故(かれ)、其の赤猪子(あかゐこ)、天皇(すめらみこと)之命(みこと)を仰(あふ)ぎ待ちて、既に八十歳(やそとせ)を経たり。於是(ここに)赤猪子以為(おも)はく、「望命(みことあふ)ぎつる間(あひだ)に、已(すで)に多(あまた)の年を経ぬ。姿体(すがた)痩せ萎(しな)えて、更に所恃(たのみ)無し。然(しか)あれども、待ちつる情(こころ)を顕(あらは)しまをさ非(ず)あらば、悒(いぶせ)き於(に)忍び不(じ)。」とおもひ而(て)、百取(ももとり)之机(つくえ)代物(しろもの)を持た令(し)めて、参出(まゐで)て貢献(たてまつ)る。然(しか)あれども、天皇既に先に所命(よさ)しし事を忘れて、其の赤猪子を問ひて曰(の)らさく、「汝(いまし)者(は)誰(た)が老女(おみな)ぞ。何の由(ゆゑ)に参来(まゐき)つる。」とのらす。しかして、赤猪子答へて白(まを)さく、「其(それ)の年(とし)其(それ)の月、天皇之命(すめらみことのみこと)を被(かがふ)り、大命(おほみこと)を仰(あふ)ぎ待ちて、今日(けふ)に至るまで八十歳(やそとせ)を経たり。今は容姿(かたち)既に耆(お)いて、更に所恃(たのみ)無し。然あれども、己(おの)が志(こころざし)を顕白(あらは)さむとして参出(まゐで)つるに耳(こそ)。」とまをす。於是(ここに)、天皇、大(いた)く驚きたまひて、「吾(あ)は既に先の事忘れたり。然あれども、汝(いまし)は志を守(も)り命(みこと)を待つに、徒(いたづら)に盛りの年を過(すぐ)ししこと、是(こ)れ甚(いと)愛悲(めぐ)し。」と、心裏(こころのうち)に婚(まか)まむと欲(おもほ)すに、其の亟(はや)く老いて、婚(まき)を成し得不(えぬ)ことを悼(いた)み而(て)、御歌(みうた)賜ふ。其の歌に曰(いは)く、
御諸(みもろ)の 厳白檮(いつかし)がもと 白檮(かし)がもと 忌々(ゆゆ)しきかも 白檮原童女(かしはらをとめ)
又、歌ひたまひて曰く、
引田(ひけた)の 若栗栖原(わかくるすばら) 若くへに 率寝(ゐね)てましもの 老いにけるかも
しかして、赤猪子之泣涙(なみだ)、悉(ことごと)其の所服(け)せる丹揩(にすり)の袖を湿(ぬら)しつ。其の大御歌(おほみうた)に答へ而(て)歌ひて曰く、
御諸(みもろ)に 築(つ)くや玉垣 斎(つ)き余(あま)し 誰(た)にかも依(よ)らむ 神(かみ)の宮人(みやひと)
又、歌ひて曰く、
日下江(くさかえ)の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなはちす) 身の盛り人 羨(とも)しきろかも
しかして、多(あまた)の禄(もの)其の老女(おみな)に給ひて返遣(かへしや)りたまひき。(古事記「雄略記」)
蓮の花は色々な場所で目にしているが、最も印象に残っているのは、信濃国分寺で見たものだろうか。
<参考>千曲川銀輪散歩・信濃国分寺・海野宿 2008.7.25.
(ヤブカンゾウ)
上池と下池との間にある空地にはヤブカンゾウが咲いていました。遠めなので一重咲きなのか、八重咲きなのか判然とせず、一重のノカンゾウかと思いましたが、帰宅してから写真をよく見ると八重咲きのヤブカンゾウのようです。ヤブカンゾウは万葉では「忘れ草」として詠われている。
忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり(万葉集巻12-3062)
もう一つの夏の万葉花であるネムノキの花も咲いていました。
吾妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも(大伴家持 万葉集巻8-1463)
(合歓の木)
合歓と言うと、万葉歌よりも芭蕉の句の方を思い出される人の方が多いかも知れませんね。
象潟や雨に西施がねぶの花 (芭蕉「おくのほそ道」)
小生も象潟を銀輪散歩したのは合歓の花が咲く頃でした。
<参考>象潟銀輪散歩(その1) 2013.7.19.
(同上)