先日(11月1日)の囲碁例会の日に撮影させていただいたゴリラの絵をご紹介します。
囲碁の会のメンバーの福〇氏はゴリラなど猿の油絵を専らに描かれているユニークなお方でもある。今回の絵は原画からの撮影ではなく、原画を撮影された同氏の写真からの撮影でありますので、紙焼き写真の反りによって、少し歪みが生じて居りますが、この点はご了承賜りたく。
(眼力<めぢから>)
ゴリラの表情が様々にとらえられ、高い知性や確固たる意志をさえ感じさせる力強い表情が魅力的です。まさに眼に力があります。
同氏の絵はこれまでにも何作か当ブログで紹介申し上げておりますので、それらの画像を下記に陳列して置きます。画像をクリックすると大きい画面に切り替わります。また、画像下のキャプションをクリックしていただくと、当該絵画の写真が掲載されている当ブログ記事を読むことができます。
(至福の時) (一休み)
(ここまでおいで)(何か・・?)
(望郷or・・) (目配り・気配り)
サルと言っても種類は色々。<以下は南方熊楠著「十二支考」を参考にした。>
英語ではモンキー(Monkey) とエイプ(Ape)と区別している。長い尻尾のあるのがモンキーで尻尾が無いか短いのがエイプである。
尤も、16世紀までは全ての猿をエイプと言っていたそうだが、その後、尻尾の無い人類に近い猿のみをエイプと言うようになり、他の猿をモンキーと言うようになった。
モンキーというのはフランス語のモンヌ(monne)、イタリア語のモンナ(monna)に小さいを意味するキーを添えた言葉だそうな。そして、モンナもモンヌもアラビア語の猿の意味のマイムンが語源らしい。一方、エイプの方は、サンスクリット語(梵語)の猿を意味するカピから派生したギリシャ語名ケフォス、ラテン語名ケブスなどの「ケ」を「エ」と訛って生じたとも、その鳴き声に由来するとも。
(注:追記)猿は、英語ではsimian(シミアン)とも。ドイツ語ではAffe(アッフェ)、フランス語ではguenon(グノン)又はsinge(サンジュ)、イタリア語ではscimmia(シンミア)。
中国ではもっと詳細な区別があったようで、猿を意味する語は、
猴、
キョ(據の手ヘンを取った漢字。ブログでは使えない文字なのでカタカナ表記して置く。以下同じ。)、
カク(攫の手ヘンをケモノヘンに変えた漢字。)、
禺(グウ)、
ユウ(ケモノヘンに穴と書く漢字)、
果然、
蒙頌(モウショウ)、
ザンコ(ザンはケモノヘンに斬と書き、コは鼠ヘンに胡と書く。)、
エン(ケモノヘンに爰と書く漢字。猿と同じ意味)、
ジュウ(ケモノヘンに戎と書く漢字。)、
独、
猩々、などなどである。
日本語では猿はサルにて(マシラなどという呼び方もないではないが、エテ公などと同じく別称と考えて置きます。)他の呼び名が無いのは、ニホンザル一種しか日本にはいなかった所為でしょう。
ところで、猿のお尻と言えば「赤い」というのが相場。真っ赤な嘘という言葉が発生したについては、この「猿のお尻」が関係していると南方熊楠先生は申して居られますな(笑)。
赤いとは「まづかく」という言の訛りたるなり。「まづかく」は真如此(真此の如し)なり。それを丹心丹誠の丹の意にまっかいと言えるは偽りなきことなるを、のちにその詞を戯れて猿の尻など言い添えて、ついに真ならぬようのこととなりて、今は真っ赤な嘘と言う。こは疑いもなく明白なるをまっかと言うなれど、実は移りて意の表裏したるなるべし、と見ゆ。」(南方熊楠「十二支考」)
丹心は赤心とも言うが、まごころ。裏表のない誠実な心のこと。丹誠は丹精とも書くが、丹精込める、という言葉があるように、飾りや偽りのない心、誠意の意、或は心を込めて物事をなすことの意である。丹は丹砂(辰砂)またはそれから作る赤い顔料のことである。
では、何故、赤(丹)心が誠実な心の意になるかと言えば、赤(あか)とは、古代にあっては、我々が今日「赤い色」と呼んでいる色彩感覚とは異なる色の表現であったからである。「あか」とは「明るい」と言う意味であり、それは夜明けの清々しい色でもあったろう。従って、赤心は「明るい心」「明らけき心」ということになる。
この論の難点は「赤心」は大和言葉ではないという点。これを言い過ぎと言い、赤恥をかくことになりますれば、余り真面目に受け取られませぬように。単純に赤子の如き心という論には叶わぬことかと(笑)。しかし、成り行き上、もう少し続けます。これに対する語は「くろ・黒」、「暗い」である。夜の暗さ、黒から日が昇り明るくなって事物の色がはっきりして、輝いて見える様が「あか」なのである。
余談になるが、もう一つの色彩の区分は青と白である。「あを」は「淡い」色、はっきりしない色、目立たない色を言う。これに対して、はっきりした色、目立つ色が「しろ・白」である。目立っているさまを「いちしるく」とか「いちしろく」と言ったが、この「しろ」と「白」は同根の言葉であろう。
つまり、古代の日本人には赤(明)・黒(暗)・青(淡)・白(鮮)の色彩名称しかなかったのである。しかし、これでは具体的な物の色を表現し区別するのが不可能。そこで、桜色、桃色、紫色、灰色、水色、空色、萌黄色、朱華色、橙色、柿色など具体的な事物、花などの名を付けてそれに似た色を表現するようになったと見られる。
ということで、真っ赤な嘘とは、決してお猿の尻が赤いという意味での赤ではなく、明白な嘘、はっきりした嘘、ということになる。
「真っ白な嘘(A Little White Lye)」というのは、アメリカのSF作家、F・ブラウンの短編小説のタイトルであるが、「真っ白な嘘」という表現は小生のお気に入りで、随分の大昔に読んだ本にて内容は殆ど記憶に無いのに、このタイトルだけは記憶に残っている。
上記の古代人の色彩区分から言えば、「真っ赤な嘘」という言葉が成立するなら、同じ意味で「真っ白な嘘」という言葉が成立してもおかしくはないように思われる。然るに「真っ白な嘘」が成立しなかったのは、やはり熊楠先生の仰る通り、猿のお尻が真っ赤であって、真っ白ではなかったからなんでしょう(笑)。
「赤っ恥」という言葉があるが「白っ恥」という言葉がないのも、同様の理由であるかどうかは、諸説があって定まらない(笑)。