カテゴリ:万葉
(承前)
一昨日(9日)の堺市少林寺銀輪散歩の続きです。 少林寺を後にし、付近を銀輪散歩。与謝野晶子が最初に恋をした男性、河野鉄南が住職をしていた寺、その鉄南の紹介で彼女が与謝野鉄幹と出会った寺でもある、その寺はこの付近にあるのではないか、と思い付いての散策でしたが、その寺の名が思い出せないので、探しようもない(笑)。 大安寺や南宗寺などを覗いて写真も撮りましたが、今日の記事では取り上げないこととします。帰宅して、寺の名前を調べたら、覚応寺でありました。後日、機会があれば訪ねることとし、その折には南宗寺の写真なども使いましょうかね。覚応寺は南宗寺から北へ2kmほど行った処にある寺にて、全く見当はずれの地域でそれを探していたことになる(笑)。尤も、名前も思い出せないのであるから、それほど真剣に探していたというのでは勿論ない。 既に、時刻は正午を過ぎていたので、昼食をとるべしで、堺東駅前方向へと走る。これは、帰途方向でもあり、もう一つの目的地、方違神社のある方向でもある。 南海堺東駅の北側、県道12号の高架下を潜った先にあるレストランが目に入ったので、そこで昼食とする。店の建物は道路から少し奥まった場所にあり、前が広い駐車場になっていて、駐輪にも都合のいい立地。ヤカモチが昼食場所に選ぶ店の決め手は食べ物がどうと言う前に、適切な駐輪場所があるかどうかにかかっているのである。 店の名はと見ると「floresta キッチンコドモ」とある。 「コドモ?」、子ども向けの店?と思ったが、駐輪して、ロックして、店に入ろうとして「コドモ」に気付いたのであってみれば、子ども向けでも何でもいい、という次第で、店の中に。普通のレストランでした。気のせいか子ども連れの客が多いようにも感じたが。 ブロ友のひろみの郎女さんなら、ここで食レポとなるのだろうが、ヤカモチ・ブログでは、この部分はカットとなるのがお決まりなのであります。 昼食後、少し後戻りして、南海電車の線路を越えて反対側にある方違神社へ行こうとするが、踏切ではなく地下通路となっていて、階段である。階段を下りようとすると、下からご老人が自転車を押しながら上って来られる。 見ると階段の中ほどで悪戦苦闘、手が震えて何やら足許も覚束ない感じ。MTBを上に停めて、手助けに入る。「手伝いましょう。」ご老人に代って彼の自転車を上まで運ぶ。「助かりました。」とご老人は人の好さそうな笑顔。情けは人のためならず、というのは「他人に情けをかけると、回り回って自分にもいいことが巡って来る」というような意味のようだが、相手の笑顔によって既にこちらが幸せを貰っているのだから、回り回ってを待つまでもないのである。 この地下通路、線路に直角ではなく斜めに通じている。線路を渡る側は「直角に渡るもの」という潜在意識が働くので、反対側の地表に出た時は、一瞬、方向感覚が狂うのである。方違神社への道としては、これほど適切な道もあるまい、と言うものである(笑)。 (方違神社) (同上・説明碑) 上の説明にある通り、この付近は摂津、河内、和泉の三国の境に位置し、それが三国丘や堺の名前に繋がっているという訳である。 この神社を訪ねる気になったのは、今年7月14日に阪大OB・OG九条の会に参加した折に、同期の永〇君と席が隣り合わせとなり、雑談する中で、三国山の万葉歌の話になり、三国丘のことを詠った歌だと彼が言ったからである。小生は、この歌は福井県の三国の山だと思っていた。三国山は所在不詳としながら、福井の三国港東北の山か、とする注釈や解説しか目にしていなかったからだ。 <参考>三人会と九条の会 2018.7.15. 三国山というのは北海道から九州まで全国に18あるという。ここ三国丘はこれに含まれていないから、このようなのも含めればもっと多いのだろう。 三つの国が接する地点を言う普通名詞であるならば、固有名詞とは無関係に候補地はもっと多くあって何の不思議もなく、この歌が誰によって、何処で詠まれたものなのか、その詠まれた背景や事情が如何なるものなのか、が不明であるのだから、北海道などは除くとしても、全国、何処の三国山であってもいいことになるというものである。「ここでは福井県の三国の山か」などと言っている注釈書も、その根拠は示されていない。 この神社には、その万葉歌碑もあるとのことだから、大阪・堺の三国丘説もあるのだろう。同期の永〇君は三国丘高校の出身。三国丘高校は、この神社の南側にある反正天皇陵の更に南側にある。彼にしてみれば、母校の名前でもある三国丘こそが万葉の三国山という大阪・堺説は譲れないということであるのかもしれない。 (同上・手水舎) 手水舎にある井戸の枠石にも大きく「三国山」と刻まれている。 歌碑は何処に、と探したが見当たらない。 探索と撮影を諦めて、帰宅して調べると、歌は、冒頭の写真に写っている社名標石に刻まれていることが判明した。 自転車・MTBを駐輪させている側の面に刻まれているので、生憎と歌碑文言の面は写真には写っていないという次第。 三国山 木末(こぬれ)に住まふ むささびの 鳥待つごとく 我待ち痩せむ (万葉集巻7-1367) (三国山の梢に住んでいるムササビが鳥を待つように私はあなたを待ち焦がれて痩せることでしょう。) (同上・拝殿) 神功皇后御馬繋之松というのもありました。 (神功皇后御馬繋之松) 神功皇后に因む伝承遺蹟は北九州から瀬戸内にかけて色んなものがあるようですが、これもその一つでしょうか。 方違神社の境内から南隣の反正天皇陵を撮影。レンズに微小の埃が付着していたか、中央に何やら亡霊が現れてしまいました。皆さんのPCまたはスマホの画面が汚れている訳ではありませんのでご安心下さい。 (反正天皇陵) 反正天皇は、父・仁徳天皇と母・磐之媛皇后との間の子。 同母兄の履中天皇亡き後即位した第18代天皇である。 神社の境内の柵越しにご挨拶、立ち寄らずに帰ることとする。 帰途は、再びあべの筋に出て、北上。長居公園通りで右折しこれを東に。長居公園に立ち寄って、ぐるり一周。 (長居公園) あびこ筋に戻り、今度はあびこ筋を北上。勝山通りに出た処で右折、これを東に。後は適当にジグザグしながら中央環状道路に。 時刻が未だ早かったので中央大通りまで出て、馴染みの喫茶店・ペリカンの家に立ち寄り、珈琲休憩。暫しブロ友でもある店主のももの郎女さんと雑談してから帰宅でありました。(完) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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