テーマ:中国&台湾(3301)
カテゴリ:台湾の玉石混淆
NHKの大河ドラマの主人公にしたい日本人が2人いる。
ひとりが、八田與一(はった・よいち)。 もうひとりが、樋口季一郎。 昭和13年には満洲国・ハルピンにいて多数のユダヤ人難民を救い、昭和20年には札幌にいて千島列島を侵略するソ連軍への抗戦を指示して北海道をソ連による奪取から守ったひと。 八田與一を描くアニメ 「パッテンライ!」 のことは、ブログでも配信誌でもご紹介してきた。 うれしいことに、やはり来年、全国上映の予定があるそうだ。 『世界日報』 の12月23日号で知った。 ところが、いつからどこで上映されるのか、ネット検索しても出てこない。 ご存知の方がいたら、書き込みをしてください。 アニメの音声入り予告篇 をまだご覧になってない方は、ぜひこの↑サイトで! 世界日報の報道記事が よくまとまったいい記事なので、引用させていただきます。 ≪長編アニメ映画 『パッテンライ!!』 “台湾農業の恩人” 八田與一を描く “真の国際人” の在り方示す 出身地・金沢での先行上映に1万人 金沢出身の土木技師・八田與一(はった・よいち)をテーマにした長編アニメ映画 『パッテンライ!! ~ 南の島の水ものがたり』 が年明けから全国で上映される。 地元金沢では1ヶ月間、先行上映され、期間中1万人を超える観客が詰めかけた。 「久しぶりに家族で鑑賞できる素晴らしい映画です」 「戦争中、台湾の農業に尽くした日本人がいたことに感動しました」 など、大きな反響を呼んでいる。 八田與一 (1886~1942年) は金沢の第四高等学校から東京帝大土木科に進み、卒業後、日本統治下の台湾に渡って台湾総督府の土木技師となった。 八田が取り組んだのは、台湾・西南部の嘉南平原だが、ここは旱魃(かんばつ)、塩害、洪水の三重苦に悩まされ、文字通り “不毛の大地” だった。 ここを農地に変えるため、長さ約1.3キロに及ぶ烏山頭(うざんとう)ダムと総延長1万6千キロの給排水路を立案設計した。34歳だった。 測量から予算組・工事などすべてを率い、10年の歳月をかけて昭和5年(1930年)に完成。 ダムは1億5千万トンの水をたたえている。 嘉南平原に張り巡らされた灌漑(かんがい)用水は 「嘉南大(かなん・たい)しゅう*」 と呼ばれ、同用水は農民ら60万人の生活を救った。 今では台湾一の穀倉地帯に生まれ変わっている。 (* 「しゅう」は、土ヘンに川。地名 「深セン」 のセンの字。) 八田の業績は地元で高く評価され、「嘉南大しゅうの父」と呼ばれ、今も神様のようにあがめられている。 その功績をたたえて、墓前には李登輝氏ら台湾の歴代総統が参拝に訪れる。 八田はその指導力もさることながら、先見性にも長けていた。 台湾は地震国で、堰堤の強度を保つためコンクリートをあまり使わず、土を盛り上げて自然に近い堰堤(えんてい)を築き、現地の地質に合った工法を駆使した。 また水量を計算すると、6万ヘクタール分しか灌漑できない。 そこで15万ヘクタールの嘉南平原 (=香川県1県に相当) に暮らす農民すべてにダムの水の恩恵が行き届くように、米作だけでなくサトウキビと豆類の三輪作を奨励、3年に1度水稲を作るよう土地を3分割した。 これが後に世界的に知られる3年輪作のシステムだった。 総事業費は、当時の台湾総督府の年間予算に匹敵する約5千4百万円。 この巨大プロジェクトは、日本の植民地政策の下、台湾を食糧供給地にするための建設だったが、李元総統が台湾に寄与した日本人の筆頭に八田の名を挙げるのは、輝かしい業績だけでなく、その人柄によるところも大きい。 それは日本人、台湾人の分け隔てがなかったことだ。 工事が始まると、敷地には職員宿舎や作業員宿舎など200軒余りが立ち並び、病室や市場、プールなど近代的な施設が整う “ダムの街” が出来上がった。 「作業員は家族と一緒に住み、良い環境で仕事をしてほしい」 との強い気持ちの表れだった。 トンネル工事の途中、爆発事故が起き50人の殉職者が出た。 慰霊碑に刻まれた名前は、現地人と日本人の区別がなく、順に追悼している。 八田の家は真宗の信仰が厚く、幼いころから培われた 「多利即自利」 の精神が生活化されていたようだ。 ダム完成後、八田は陸軍に徴用され、昭和17年5月、フィリピンに向う途中、米潜水艦の攻撃を受けて船が撃沈、56歳の生涯を閉じた。 夫を支えた外代樹(とよき)夫人の存在も大きい。 十五歳年下の同郷の医師の娘だが、金沢第一高女卒業後、八田と お見合い。 母親らの反対を押し切り、意思を貫いて結婚した。十六歳の花嫁だった。 烏山頭の官舎に住み、夫と苦楽を共にしながら、二男六女を育てた。 「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」 事務局長の中川外司さん (同映画発起人の一人、金沢市在住) は 「外代樹さんもなかなかの人物で、女性たちのリーダー的存在だったでしょう」 とみている。 夫の死後、夫人は郷里に帰らず子供たちと台湾に残った。 住んでいた台北の空襲が激しくなると、烏山頭(うとうざん)へ。 そこで終戦を迎えるが、八月末日、簡潔な遺書を残して、夫が心血を注いだダムの放水路に投じ奉じた。 45歳だった。 現在、ダムを見下ろす小高い丘の上に、土手に腰を下ろし膝ひじに肘ひざを突いて思索する独特のポーズの八田の銅像があり、その後ろには 「八田與一・外代樹之墓」 と刻まれた墓が、地元農民の手によって建てられている。 二人の名は朱色で刻まれ、「それは神を表している」 (中川さん) という。 同技師の命日に当たる5月8日には、昭和22年(1947年)以来、毎年、地元農民らによって墓前祭が営まれてきた。 昭和60年から毎年参列している中川さんは 「血の通った土木工事は、国境を超えて人々の心の中に生き続けます。それを子供たちに伝えたい」 と語っている。 映画は「宇宙戦艦ヤマト」を演出した石黒昇監督、八田技師役を声優の井上和彦さん、妻外代樹役は、主題歌『受け入れて』を歌う一青 窈(ひとと・よう)さんの姉で、女優の一青 妙さんが演じている。 一青(ひとと)姉妹は父方が台湾出身、母方が石川県出身で、 「パッテンライ」 とは台湾語で 「八田来」、八田がやって来たという意味だ。 (日下一彦)≫ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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