142.ひとりの双子 [ ブリット・ベネット ]
本のタイトル・作者ひとりの双子 [ ブリット・ベネット ]"THE VANISHING HALF"by Brit Bennett本の目次・あらすじマラード。地図にも載らない小さな町。1848年に彼の所有者でもあった父親からその土地を相続したアルフォンスは、そこに「白人と認められることは絶対にないが、黒人として扱われることを拒む者たち」のための町を作った。色の薄い者たちが交わり、代々、色は薄くなっていくだろう―――。そしてある朝、彼の子孫である16歳の双子の姉妹が町から消えた。二人は離れ離れになり、ひとりは、漆黒のように黒い男と子どもをもうけた。そしてもうひとりは―――白人として生きた。第1部 消えた双子(1968年)第2部 地図(1978年)第3部 感情線(1968年)第4部 楽屋口(1982年)第5部 パシフィック・コーヴ(1985年/1988年)第6部 それぞれの場所(1986年)引用「まだ小さいころ」と彼女は言った。「四、五歳のころだけど、この地図は、私たちがいる側の世界だけを描いているんだと思ってた。世界にはもうひとつの側面があって、べつの地図が存在するような気がしてた。パパには馬鹿げてるって言われたけど」(略)彼女はいまなお、心のどこかで、父親が間違っていることを願っていた。この世にはほかにもまだ、発見されるのを待っている世界があるはずだと思いたかった。感想2022年142冊目★★★★人種内差別(カラー・ストラック)。白人なりすまし(パッシング)。白人として生きる(パス・ブラン)。「白人として通用する」ほど白い黒人の双子は、ひとりは黒人として、ひとりは白人として生きる。漆黒のような黒人の男と結婚したデジレーは、青く見えるほど黒い(ブルー・ブラック)娘ジュードを産む。ジュードは町の誰からも「ミルクに浮いた蠅」のように扱われ、陸上で奨学金を得て大学に進学することになり町を出る。そこで彼女はトランスジェンダーの恋人が出来る。双子の片割れのステラは、秘書をしていた裕福な白人男性と結婚し、紫に見えるほど青い瞳の娘ケネディを産む。嘘に塗れた彼女は、どこから見ても完璧な白人に見える娘ケネディを、そのままに愛せない。ケネディは女優を目指し家を出る。その人を、「その人」と定義づけるものは何なんだろう?ということを、「色」だけでなく、「性別」からも問うた一冊。かなり重厚な内容で、読んでいてページを繰る手が止まらなくなる。物語を進めていくドラァグクイーンもミュージカルも、かりそめの世界ということでは同じ。人は誰を演じて、そして誰を演じられないんだろう?割り当てられた役割は、いったい誰に押し付けられたものなのだろう?そこから逸脱したら、どうなるんだろうか。アメリカの強烈な人種差別について、これがまだほんの百年ちょっとの間のことなのだと驚く。公営プールから人種差別が撤廃され、黒人とは同じプールで泳げないと、庭にプールを作るステラの夫。けれど彼は「みんな仲良く」することが良いという信念の持ち主なのだ。これ、今の状況でも言えることだと思った。建前と本音。見せかけと本性。体裁と悪意。違う。あいつらは、自分とは、自分たちとは、違う。だから混ざらないように、分けておかなくては。その「自分」は、確固たるものなのだろうか。それはそんなにも優位で価値のあるものなんだろうか。それを疑ったことはないのだろうか。疑うことは、アイデンティティの崩壊を意味するのか。私の中にも、その「線引き」がある。あなたと私。あちらとこちら。口では偉そうなことを言っておきながら、実態はどうだろう。そこに高低を、優劣を、つけてはいないか。お前はそんなに偉いのか?ただそこに生まれたというだけで?一方で時と場所が変われば、「私」が侮蔑の対象になるということを忘れながら。この物語のように、「あちら」と「こちら」のどちらにでも渡れる時。その境界線にいて、どちらを選ぶだろう?どちらにでもなれる時。一方の世界では特権階級であり、一方の世界では奴隷階級である。その時に。優位なほうを選ぶのであればそれは、今の仕組みを肯定し再生産するということだ。蔑み罵られ一方的に殺される可能性のある「私」を。線の内側にいると安寧しているなら、それは間違いだ。それはいつでも変わり得るし、どんなふうにでも引けるのだから。これまでの関連レビュー・世界と僕のあいだに [ タナハシ・コーツ ]・ブルースだってただの唄 黒人女性の仕事と生活 [藤本和子]・14歳から考えたいレイシズム [ アリ・ラッタンシ ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓