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カテゴリ:日々の随筆
【オーストラリア】
+++++++++++++++++ 2007年3月22日(木)、 私は、オーストラリアへと旅立った。 友人のお譲さんの結婚式に 出席するためである。 その友人と会うのは、15年ぶりかな? よくわからないが……。 +++++++++++++++++ ●オーストラリアへ 静かな朝だった。薄いモヤのかかった山々を、ぼんやりとした光が照らしていた。行く筋にも延びる、低い雲。ひんやりとした冷気。3月22日。木曜日。私はこれから、オーストラリアのメルボルンへと向かう。 ワイフと東名西インターで別れ、そのまま中部国際空港行きの高速バスに。窓の外の景色を見ながら、考えるのは、37年前のこと。しかし頭の中は、まだ眠ったまま。ぼんやりとした景色が、気ぜわしく、目の前を流れていく。 ●記憶 記憶というのは、タマネギのようなもの。中心に若いころの記憶が残っていて、そのあと、皮を重ねるように、記憶が重なっていく。新しい記憶ほど、外側を包む。 が、歳をとると、今度は反対に、外側から記憶から、皮がはがれるように消えていく。あるいはバケツの底にあいた穴のようなもの。新しい記憶が重なるたびに、それ以上の記憶が、その穴からどこかへ漏れていく。 そんなわけで、古い記憶だけが、そのまま残る。より鮮明に、記憶に残る。 ●37年 ちょうど37年前の今月、私は、オーストラリアへ渡った。当時は羽田から、シドニーへ。そこから飛行機を乗り継いで、メルボルンへ。 懸命に、そのとき覚えた感動を思い起こそうとする。が、どうもつかみどころがない。そこにあるはずなのに、そのままスーッとどこかへ逃げてしまう。あのときは、夢と希望に満ち溢れていた。すべてが金色に輝いていた。 私は天にも昇るような気持で、飛行機に乗った。 ●中部国際空港 空港へは、2時間ほど前に着いた。ロビーは混雑していたが、手続きをすましたあとは、一変した。中は、閑散としていた。国際線の出発ロビーは、左側。目の前には、コリアン・エアーのジャンボジェットが、どこかくすんだ、水色の機体を、横たえていた。 その向こうに、JAL機が数機。そんなとき、ふと、「国際って何だろう」と思った。「世界」でもよい。この空港にも、世界中の飛行機が集まっている。まわりを通り過ぎる人たちも、それぞれの国の言葉を話している。 37年前とは、大きく、事情が変わった。あのころの私は、外へ飛び出すこと。それしか考えていなかった。「大学はどこにしたい」と聞かれたときも、一番、遠い、メルボルン大学を選んだ。とにかく、遠くへ行きたかった。 ●友人の娘 あさって、友人の長女が結婚式をあげる。それに招待された。しかし本当は、友人の妻の葬儀に参列するつもりだった。しかし航空券が取れなかった。友人の妻がなくなったのは、12月の終わりだった。 メールで何度かやりとりしているとき、友人が、3月に娘が結婚するという話をした。それで3月にした。葬儀と結婚式。日本では、正反対に考えられている。こうした意識が、オーストラリアでも同じかどうかは知らないが、私が行くことで、友人の悲しみが少しでも和らげばよい。 結婚式に出るのは、あくまでも口実? ●メルボルン メルボルンは、私にとっては、とても大切な町だ。私の青春時代のすべてがそこにある。私の人生は、あのメルボルンで始まった。 で、先に書いたタマネギの話だが、タマネギにも、いろいろな大きさがある。大きなタマネギもあれば、小さなタマネギもある。もしあのころ、あのまま、大学を卒業して商社マンか何かになっていたとしたら、私は、大きなタマネギを知らないまま、それなりの人生を送っていたかもしれない。 私はあるとき、友人に、こんな手紙を書いた。「ここでの1日は、金沢で学生だったころの1年のように長く感ずる」と。 決して、オーバーなことを書いたのではない。本当にそう思ったから、そう書いた。 ●飛行機恐怖症 私は飛行機恐怖症である。飛行機に乗るたびに、おかしな緊張感にとらわれる。体がカチカチになる。一度、飛行機事故を経験してから、そうなった。 それ以後もたびたび飛行機に乗ってはいるが、旅先で、不眠症になってしまう。そのため、海外へ行くときは、睡眠薬(睡眠導入剤)は欠かせない。 その私が、また飛行機に乗った。いやな気分だ。このままだったら、偏頭痛が始まるかもしれない。そんな雰囲気だった。私は、水を、1時間あたり、1リットルの割合で飲んだ。座席が通路側だったのが、よかった。そのつど、トイレへ足を運んだ。 が、シンガポールのチャンギ空港に着くころからその偏頭痛が始まった。若いころは、偏頭痛で苦しんだ。 今は、よい薬がある。 第一段階。まずB錠Aで痛みを抑える。それで聞かなければ、C剤。それでも効かなければ、Z剤。1錠、500円(保険価格)という高価な薬である。 ●チャンギ空港 チャンギ空港(Singapore Changi Airport)は、大荒れの天気だった。一度着陸に失敗したあと、飛行機は、空港上空を、30~40分ほど、旋回した。ときどき、稲妻の閃光が走るのが見える。機体が大きく揺れる。 隣の若い男女は、のんきにガイドブックを読んでいる。それがおかしいほどに、不釣合いな様子に見えた。 2、3度、積乱雲に入ったようなダウンバースト(急降下)を経験する。そのたびに、飛行機は、パワー全開にして、また機首を上に向ける。この繰りかえし。息子がいつか言った。 「高度、x00メートルまでさがって、視程がx000メートル以下だったら、着陸は許可されない」と。 xの部分の数字は、忘れたが、こういうときのために、こまかいルールが設定されている。 が、ともかくも、飛行機は着陸した。私は飛行機を出ると、トランスファー(乗り継ぎ)ルームへと向かった。 ●死ぬこと 飛行機が空港の上を旋回しているときのこと。私は、ふと、死ぬことを考えた。このあたりが、私の、かなりうつ的なところ。あるいは飛行機恐怖症のせいかもしれない? しかしどういうわけか、こわくなかった。死ぬ覚悟はできていた。「このまま死んでも、構わない」とさえ思った。死ぬといっても、一瞬だ。脳みそに痛みが届く前に、私は気を失い、そのまま死ぬ。 ジタバタしても、しかたない。おかしなことだが、「私はじゅうぶん、人生を楽しんだ」「これ以上、何を望むのか」と。そういう思いが、交互に頭の中をかけめぐり、死への恐怖をやわらげる。 人には、それぞれ運命というものがある。その運命のほとんどは、私が知らないところで、私の力の及ばないところで、決まる。死も、そのひとつ。死ぬときは、死ぬ。死なないときは、死なない。そんな運命を、だれが、避けることができるだろうか。 ●チャンギ空港(2) トランスファー・ルームをあちこち歩いて、やっと、パソコンコーナーを見つけた。無料のインターネット・コーナーはいくつかあったが、電源を用意したデスクは、一か所だけだった。運良く、ひとつだけ席があいていた。 英語では、「Laptop Access」というらしい。そういう表示が、デスクの上に書かれていた。ナルホド! 隣の席の男性は、シンガポール英語を話す日本人だった。ときどき携帯電話で、だれかと連絡を取りながら、パソコンのキーボードをたたいていた。 キンキンと、語尾を短く切る英語。インド英語にも似ているが、かなりちがう。慣れないと、聞きづらい。 先ほど、案内人に、「待ち時間が5時間もある」とこぼしたら、「シンガポール観光をしてききたら」とすすめられた。「2時間でできるから」と。私は、礼だけは言ったが、「No」と答えた。 この雨だ。それに軽い頭痛が残っていた。まずB錠Aを試してみる。それを口の中で、かじりながらのむ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年03月29日 09時15分34秒
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