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楽天・日記 by はやし浩司

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2007年09月25日
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カテゴリ:育児問題
●教育界を吹きすさぶ、むなしい風(目標をなくした教育)

 できない子どもがふつうになっても、親は「効果があった」とは言わない。ふつうになればなっ
たで、親は「もっと……」と言う。できないままであれば、親は、「効果がなかった」とか、「あの先
生はダメな先生」とか言ったりする。できる子どもについても同じ。少しでも成績がさがったりす
ると、親は大騒ぎする。考えてみれば、こんなむなしい仕事はない。こうした現象は、算数の世
界でよく見られる。

 計算力というのは、訓練で伸びる。幼稚園児でも掛け算の九九を暗記したり、あるいは小学
一年生でも、計算を即座にしたりする子どもがいる。そういう子どもの親は、「うちの子どもは、
算数の力(=考える力)がある」と思う。しかし計算力と、算数の力は別。基本的な力がないと、
やがてメッキがはがれるように、算数の力は低下する。こういうとき教師は一番、苦労する。親
のきびしい視線を、子どもを通して痛いほど、感ずるからだ。

 教育、教育と言いながら、親の意識の中にも、「育てる」という意識がない。教育とは、勉強を
教えること。子どもの側では勉強をすること。そしてその目的はと言えば、「よい学校に入り、よ
い大学を出て、よい会社に入社するため」と考える。だからどうしてもそこに成績至上主義がは
びこる。成績がよければ善。成績が悪ければ悪、と。こうしたものの見方は明治時代以来、日
本の伝統的な教育観として定着している。あの夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも、職員会議の
席で一人の教師が、「我が校の実績も着実にあがってきております」と発言するシーンがある。
この場合、「実績」とは、大学への進学率をいう。

 私は一度、ある塾連盟の機関紙にこんな記事を書いたことがある。「何だかんだと言ったとこ
ろで、日本の教育の柱は人間選別ではないか。もしこの教育界から受験をはずしたら、塾な
ど、あっと言う間につぶれてしまうでしょ。学校教育だってあぶない。もし塾が本当の教育とや
らをしたいのなら、受験科目とは関係ない科目で、生徒を集めてみればいい」と。ふつうならあ
ちこちから反論が殺到するが、このときばかりは何も反応がなかった。塾教育そのものを、ま
っこうから否定したからだ。

 話をもとに戻すが、今のような教育体制を続ける限り、この教育界から、この「むなしさ」は消
えない。そしてこのむなしさがある以上、教師にやる気など、出てこない。だからいくら外部の
人間が教育改革を叫んでも、絵に描いた餅で終わってしまう。考えてみれば昔はよかった。教
育がわかりやすかった。進学率を高めることが、教育の目標だった。しかし今は、その目標が
ない。現場の教師たちが、何に向かって努力したらよいのか、それがわからなくなってしまっ
た。

へたに創意工夫をすれば、隣のクラスの父母から文句を言われる。「どうしてうちのクラス
では、してもらえないのか」と。そうそう毎日のように子どもたちを近くの公園へ連れていき、そ
こで授業をしていた先生がいた。しかし親たちの反対で、あっという間にやめになってしまっ
た。「そんなことすれば勉強が遅れる」と。

 創造力豊かな子どもを育てるといったところで、教師自身にそれが許されていないのに、どう
してそれができるというのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ごく最近(05年夏)でも、こんなことがあった。

 ある小学校に、オーストラリア人の英語教師が派遣されてやってきた。で、そのオーストラリア人教師が、自分の生徒たちを、近くの公園へ連れて行こうとしたとき、教頭が、それにストップをかけた。「授業は、教室でするように」と。

 そのオーストラリア人の教師は、私にこう言った。「野外授業は、オーストラリアでは、みなやっている。当たり前の授業なのに、どうして日本では、だめなのか?」と。

 その学校には、その学校なりの、いろいろな事情や規則があったのだろう。「事故でもあったらたいへん」と、その教頭は考えたのかもしれない。オーストラリア人の教師は、こう言った。「オーストラリアの子どもたちの遊びを教えたかったのに……」と。

 だからといって、私は、全面的に、そのオーストラリア人の教師の言い分を認めたわけではない。日本人には、「土俵」という考え方がある。「土俵では、相撲のルールに従え」と。そこで私はそのオーストラリア人の教師に、こう言った。「本当に自由な教育をしてみたいと思ったら、英語教室を自分でつくり、生徒を自分で集めること。そこで好きなことをすればいい」と。

 この私の考え方は、少し、保守的かな?
(はやし浩司 教師の自由 教育の自由 教師のやる気 自由な教育)





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最終更新日  2007年09月25日 07時52分45秒
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