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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年05月15日
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カテゴリ:家族のこと

●母の苦労

母は、ことあるごとに、「私は苦労した」と言った。
祖父母の介護で、苦労した。
夫の世話で苦労した。
兄で苦労した。
私のことで苦労した、と。
だから近所でも、また親戚中でも、母は、苦労人で通っていた。
だからみなは、こう言う。
「あなたのお母さんは、苦労をなさったからねえ」と。

もし母に苦労があったとするなら、それは運命との戦いだった。
母は、つねに運命と戦った。
不本意な結婚。
病弱な父と兄。
気の強い姑。
その介護。

しかし運命というのは、受け入れてしまえば、何ともない。
運命のほうからシッポを巻いて逃げていく。

その第一。
母は、自転車屋の父と結婚したが、商人の女将にもなりきれなかった。
かといって、金持ちの奥様にもなれなかった。
だからたいへんおかしなことに、最後の最後まで、自分は自転車屋の女将とは、
思っていなかった。
それを認めていなかった。
だからたとえば、近所の人たちの職業を、よくけなした。
「あそこは、どうの」「ここは、どうの」と。
「ロクでもない仕事」という言葉もよく使った。
で、ある日、私はこう言ったことがある。
「うちだって自転車屋だろ。そう、いばれるような職業ではないだろ」と。
それを言ったとき、母は、「うちは、ちがう!」と、血相を変えて怒った。

母にしてみれば、死ぬまで、母はN家という名家の出だった。
またその世界から一歩も、外に出ることがなかった。

また他人は、母のことを苦労人と思っていたが、そう思わせたのは、実は母自身だった。
母は、そういう点でも、口のうまい女性だった。

●一事が万事

そんなわけで、母との思い出は、ほとんどない。
浜松に移り住んでからも、お金を奪いに来たことはあるが、たとえば私の息子たちの
ために何かをしてくれたことは一度もない。
で、三男が小学6年生になったときのこと。
私は「一度でいいから、参観日に来てやってほしい」と懇願したことがある。
「これが最後になるから……」と。

その電話を受けて、母は、オイオイと電話口の向こうで泣いた。
「浩ちゃん、ごめんな……。母ちゃんは行ってやりたいけど、足が痛いのや……」と。

私はそれを聞いてあきらめたが、この話は、ウソだった。
その日母は、クラブの仲間たちと、一泊旅行に出かけていた。
あとで私がそれを知り、母を責めると、母は悪びれた様子もなく、ケラケラと笑いながら、
こう言った。
「ハハハ、バレたかなも」と。

そんなこともあって、私は母から受け取ったものは、何もない。
私が結婚したとき、親戚の中には、私に祝いを届けてくれた人もいたらしいが、
そういったお金は、すべて、1円残らず、すべて母が自分のふところに入れてしまった。

で、それについても、ずっとあとになってから、私が母に、「お前からもらったものは
何もないなア……」とこぼすと、母は、こう言った。
「そんなこと、あらへん。(二男が生まれたとき)、(二男に)ふとんを送った」と。

私はそれを忘れていた。
で、その話をすると、ワイフはそう言えば……と、そのふとんのことを思い出してくれた。
が、そのふとんというのは、私が幼児のころ使っていたふとんである。
ふとんの絵柄に思い出が残っていた。

まさに一事が万事、万事が一事だった。

●決裂

私が母と決裂したのには、いくつかの理由がある。
理由というより、段階がある。
そのつど、私は母にだまされ、そのつど、それを乗り越えた。
が、最後に決裂したのは、こんな事件があったから。

そのとき私は、母に土地の権利書を渡した。
実家を改築するときに、担保として、私が譲り受けたものである。
実家の改築に1800万円程度の費用がかかった。
大半をローンでまかなった。
そのとき、母名義の土地を、私が譲り受けた。
坪数は30坪前後。
当時の価格からしても、500万円にもならなかった。
銀行に相談しても、「その土地では、金を貸さない」と言われた。

で、そのままその権利書は、私が預かった。
しかたないので、私は私の自宅の土地を担保にして、お金を借りた。

が、その土地を、私が知らないときに、言葉巧みに権利書を自分のものにすると、
それをそのまま他人に転売してしまった。
泣いて私がそれに抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。

「親が先祖を守るために、子の金を使って、何が悪い!」と。
罵声以上の怒鳴り声だった。

●煩悶

それから10か月。
私はワイフの介抱なくして眠られなかった。
夜、床に就くたびに、体中がほてり、脈がはげしくなった。
ワイフはそのつど、氷で頭を冷やしてくれた。

あるいは夜中に、うなされることもつづいた。
突然、飛び起きて、ウォーと声を張り上げることもあった。
しかし夢となると、もっと多かった。
朝起きると、ワイフは、よくこう言った。

「あなた、昨夜も、うなされていたわ。お母さんと喧嘩していたわ」と。

●干渉

が、数か月もすると、伯父から電話がかかってきたりした。
説教がましい電話だった。
裏で、母がどのように伯父に泣きついていたかは、容易に察しがついた。
叔父は、そのつど、こう言った。

「姉を大切にしろよ。親は親だからな」「親の恩を忘れるな」と。

そのうち従兄たちからも電話がかかってくるようになった。
「おばちゃんが、ころんだぞ」
「おばちゃんが、入院したぞ」と。

従兄たちも、母に、よいように操られていた。

私には知ったことではなかった。
実際には、そのつど姉の方から電話を受けて、それを知っていた。
しかし新類は、それを許してくれなかった。
私はそのつど、身をひきちぎる思いで、それに妥協した。

●人間不信

母がああいう母であったことについては、それが運命であるなら、しかたない。
母は母で、あの時代の申し子。
母のような人は、あの時代には、珍しくなかった。
「江戸時代」というと、遠い昔のことのように思う人もいるかもしれない。
しかし母の時代にしてみれば、江戸時代といっても、ほんの一世代前のことだった。
「家」意識にしても、逆に、1世代や2世代くらいで、消えるような意識ではない。
母は、それを引きずっていた。

母だけではない。
どこにでもいるとまでは言わない。
が、似たような人は、いくらでもいた。
今でもいる。

が、私にとって何よりもつらかったのは、そうした母をもったことによって、
人を信じられなくなってしまったこと。
「女はみな、そういうもの」という意識は、「ワイフも似たようなもの」という
意識に、そのつど、変化した。
しかし私がそういう意識をもつことで、いちばん苦しんだのは、結局は、私の
ワイフということになる。





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最終更新日  2009年05月15日 10時47分40秒
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