2494483 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

楽天・日記 by はやし浩司

楽天・日記 by はやし浩司

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2009年05月15日
XML
カテゴリ:家族のこと
●「悔しい」

問題は、なぜ、母は、私にそこまでしたかということ。
できたかということ。
それについては、名古屋市に住む従姉(いとこ)が、ずっとあとになって教えてくれた。

その従姉はこう話してくれた。
私が今のワイフと結婚届けを出した夜のこと。
母は親戚という親戚すべてに電話をかけ、「(息子を)取られた」「悔しい」と、
泣きつづけたという。
従姉もその電話を受け取っていた。

母は、私の前ではそういった様子を、おくびにも出さなかった。
私たちの結婚を祝福してくれたように、私は理解していた。
が、そうではなかった。
母は、私という息子を、ワイフに「取られた」と感じたらしい。
つまりそれが母の心の底にあって、その(恨み)が、私からお金を奪うという
行為につながっていった。
「大学まで出してやったのに、恩知らず」と。

今にして思うと、そう解釈できる。

●ダカラ論

『ダカラ論』ほど、身勝手な論理もない。
「親だから……」「子だから……」「男だから……」「女だから……」と。
ダカラ論を振りかざす人たちは、過去の伝統や風習、習慣を背負っているから強い。
問答無用式に、こちらをたたみかけてくる。

一方、それを受け取る側はどうかというと、反論するばあいも、その何十倍も、
理論武装しなければならない。
過去の伝統や風習、習慣と闘うというのは、それ自体、たいへんなことである。
それに相手は多勢。
こちらは無勢。
そういう相手が、どっと私に迫ってくる。
で、結局、『長いものには巻かれろ』式に、妥協するしかない。
「どんな親でも、親は親だからな」と言われ、「そうですね」と言って、そのまま
引きさがる。
いらぬ波風を立てるくらいなら、穏やかにすませたい。
いつしか私と母の関係は、そういう関係になっていった。

●バネ

しかし実際には、これがたいへんだった。
金銭的な負担感というよりは、社会的な負担感。
それがギシギシと、私の心を蝕(むしば)み始めた。
私が仕送りを止めたら、母と兄は、それこそ路頭に迷うことになる。
重圧感を覚えながらも、仕送りを止めるわけにはいかなかった。

が、幸いなことに、私の仕事は順調だった。
家族、みな、健康だった。
それに私は、戦後生まれの団塊の世代として、たくましかった。
あのドサクサの時代の中で、そう育てられた。
だから私は、母にお金を取られるたびに、それ以上のお金を稼いだ。
「畜生!」「畜生!」と、歯をくいしばって、そうした。
だからワイフは、ときどきこう言う。

「かえってそれがバネになったのよ」と。

●家族自我群

人間にも、鳥類に似た、「刷り込み」があるのが、最近の研究でわかってきた。
生後まもなくから、7か月前後までと言われている。
この時期を、「敏感期」と呼んでいる。
この敏感期に、親子の関係は、本能に近い部分にまで、徹底的に刷り込みがなされる。

もっとも親子関係が良好な間は、こうした刷り込みも、それなりに有用である。
親子の絆も、それでしっかりとしたものになる。
しかしその関係が一度崩壊すると、今度はそれが家族自我群となって、その人を苦しめる。

ふつうの苦しみではない。
何しろ本能に近い部分にまで、刷り込まれる。
だから心理学の世界でも、そうした苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。
特別なものと考える。
私は、その幻惑に苦しんだ。

記憶にあるのは、40代のはじめのころのこと。
私はいつも電車を乗り継いで郷里へ帰ったが、実家が近づくたびに、電車の中で、
法華経の経文を唱えた。
またそうでもしないと、自分の心を落ち着かせることができなかった。

●兄のこと

兄についても書いておかねばならない。
兄は昭和13年生まれ。
私より9歳、年上だった。

ずっとあとになって、……というより亡くなる数年前に、専門医に自閉症と診断
されている。
そう、自閉症だった。
が、軽重を言えば、軽いものだった。
少なくとも中学校を卒業するまでは、そうだった。
アルバムの中の兄を見ても、ごくふつうの中学生だった。
その兄が大きく変化したのは、兄が中学を卒業し、稼業の自転車屋を継ぐようになって
からである。

父は兄を毎日のように、叱り、罵倒した。
本来なら母が間に入って、その関係を調整しなければならなかったが、母までが、
兄を毛嫌いし、兄を突き放した。
兄の精神状態がおかしくなり始めたのは、そのころのことだった。

自分の部屋に閉じこもり、レコードを聴いて過ごすことが多くなった。
あるいはニタニタと意味のわからない笑みを浮かべ、独り言を口にしたりした。

●干渉

田舎という地方性があったのかもしれない。
あるいは私の実家だけが、とくに同族意識が強かったのかもしれない。
実家が、「林家」という本家だったこともあり、叔父叔母、伯父伯母は言うに及ばず、
従兄たちまでもが、そのつど、私や私の家族に干渉してきた。

うるさいほどだった。

私の事情も知ることなく、また経緯(いきさつ)を知ることもなく、安易に、ダカラ論
をぶつけてきた。
干渉するほうは、親切心(?)から、そうしてくるのかもしれない。
あるいは好奇心からか?
事実、叔父、叔母も含めて、もちろん従兄弟たちも含めて、私は生涯にわたって、
1円たりとも金銭的援助を受けたことはない。

しかし干渉されるほうは、たまったものではない。
そのつど私は真綿で首を絞められるような苦しみを味わった。

が、いちいち説明することもできない。
私と母の関係を説明することもできない。
何しろ、親絶対教の信者たちばかりである。
そういう世界で、親の悪口を言えば、逆にこちらのほうが寄ってたかって、
袋叩きにされてしまう。

面従腹背というのは、まさにそれをいう。
私は心の奥では運命をのろい、外では、できのよい息子を演じた。
しかしこうした仮面をかぶるのも、疲れる。
一度だけだが、節介焼きの従兄と、喧嘩したこともある。

●従兄

その従兄は、ネチネチとした言い方で、いつも私を揶揄(やゆ)した。
用もないのに、「ゆうべ、浩司クンの夢を見たから……」と。

「Jちゃん(=私の兄名)が、入院したぞ」
「Jちゃんが、ものすごいスピードで、自単車で走っていたぞ」
「親は、どんな親でも、親だかなあ、ハハハ」と。

だから最後の電話で、こう叫んだ。

「偉そうなことを言うな。お前が、ぼくと同じように、20代のときから実家に
仕送りでもしていたというのなら、お前の話を聞いてやる。しかしそういうことも
ロクにせず、偉そうなことを言うな!」と。

それでその従兄とは、縁を切った。
「たがいに死ぬまで、連絡を取らない」と心に決めた。
昔の話ではない。
今から10年ほど前のことである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2009年05月15日 10時49分32秒
[家族のこと] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.