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カテゴリ:鹿児島の歴史
7月24日の拙ブログで英国人医師 ウイリアム・ウィリスについて少し触れたが、鹿児島にどのような足跡を残したのか、調べてみた。
英国の外交官・アーネスト・サトウの日記を紹介した萩原延壽薯 「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」13 西南戦争 (朝日新聞出版)によると、西南戦争当時ウィリスは鹿児島で西洋医学の普及に努めており、以前から親交のあった西郷隆盛の出征を見届けた人物でもある。 ウィリスは1837年、アイルランドに生まれ、エジンバラ大学で医学を学びロンドンで外科医をつとめた。1861年箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され、江戸高輪の東禅寺事件に遭遇し、生麦事件の現場を目撃し負傷者の治療にもあたった。 ウィリスの医術が十二分に発揮されたのは慶応4年(1868)1月に起こった新政府軍と旧幕府との間で戦われた鳥羽・伏見の戦いであった。薩摩藩は京都・二本松藩邸の裏手にある相国寺の塔頭・養源院に野戦病院を開設して、負傷者の手当てにあたった。しかし当時の我が国は外科手術がまだまだであったのと衛生状態が悪かったため、負傷者は次々と亡くなった。 それに心を痛めた薩摩藩砲隊長の大山巌は西洋医の招聘を西郷や大久保に相談し、英国公使パークスの許可があり、ウィリスの派遣が決定した。1月27日入京したウィリスは養源院で治療を開始し、百名を超える主に創傷の患者の手当てにあたった。薩摩藩医を助手にして、彼らに医術を教えながらの治療は大きな効果となって名声も広がった。 ウィリスはその後も日本各地で負傷兵の治療に当り、東京医学校の教授に就任する。しかし、明治3年(1870)新政府がドイツ医学採用の方針をとったため自発的に東京医学校の教授を自発的に退職した。 そして、西郷や医師石神良策の招きを受け鹿児島医学校長、付属病院長に就任した。 鹿児島医学校は、はじめ浄光明寺跡(現在の南洲神社)にあったが、のちに滑川(現在の鹿児島市小川町)に移転した。赤レンガ造りの洋風建築だったので、赤倉病院とよばれたという。その跡に現在も碑が建てられている。 ![]() ![]() ウィリスは医学校と病院の整備につとめ、診療のかたわら、西洋医の養成にも尽力し、のちに東京慈恵会医科大学を創設し、「ビタミンの父」といわれた高木兼覚など多くの人材を育てた。 鹿児島で医学と医療に尽力したウィリスは島津斉彬の側近だった江夏十郎の娘・八重子を伴侶とした。彼女との間にアルベルトという息子も出来たという。鹿児島滞在は8年という長い期間だった。 鹿児島の医学の歴史は、それ以前、島津家25代当主・8代藩主・島津重豪(1745~1833)は医学にも関心が強く造士館のとなりに医学を研究する医学院を造っている。薬草園も吉野、佐多、山川に開いている。重豪は斉彬の曽祖父にあたるが、重豪がオランダ商館の医師・シーボルトに会う際に斉彬を同席させて啓蒙したという。 私の父方の大叔父(祖母の末弟)も医者だったが、昔聞いた話では医者に弟子入りして、医者になったという。 いま思うに、あるいは前記の英国人医師・ウィリスのお弟子さんにでも入門したのかもしれない。もっと早くこういうことを知っていれば、聞いておくのだったと思うが、時は大きく過ぎ去ってしまった。 参考文献 桐野作人著 「さつま人国誌」 鹿児島市教育委員会編 「鹿児島市史跡めぐり」 ウィキぺディア 「ウィリアム・ウィリス」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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