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ジージの南からの便り

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2019.11.26
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カテゴリ:島津一族


「島津義弘没後400年」に因む島津義弘に連なる人脈のその3 島津義久

 島津義久は第16代島津家当主 祖父は島津忠良(日新齊)父は第15代当主・貴久
言わずもがなの島津四兄弟の長兄。義弘、歳久、家久(中務大輔)の弟がいる。
天文2年(1533)義久は貴久の嫡男として薩摩国伊作(日置市吹上町)に誕生した。永禄9年(1566)父・貴久から家督を譲られて、守護職を継承した。
 しかし、薩摩を取り巻く情勢には厳しいものがあった。引き続き父・貴久に従い薩摩や大隅の敵対勢力の討伐のために戦う。元亀2年(1571)父・貴久が亡くなると弟の義弘、歳久、家久の協力を受けて三州統一に向かう。永禄末年頃から薩摩北部の菱刈氏が肥後の相良氏と結んだためこれと戦って撃ち破り薩摩国を掌握する。天正2年(1574)には、大隅の伊地知氏、肝付氏を破り、薩摩・大隅を完全に支配下に収める。天正5年になると、日向の伊東氏を下し父・貴久の悲願だった三州(薩摩、大隅、日向)の統一を果たす。

 しかし、そこからまた苦難が始まった。
翌天正6年豊後の大友宗麟が大軍を率いて日向国に攻め込んできたのだ。義久は高城川を挟んで「釣り野伏」という敵を挟み込む作戦で大友軍を撃破する。世に「耳川の戦い」と呼ばれるこの戦いで大友氏の力は衰えるが、今度は肥前の龍造寺氏が台頭してくる。これを天正12年の沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信を討ち取り勝利する。すると、肥後や筑前などの大名たちが島津になびき始めた。

 苦境にあった豊後の大友宗麟が豊臣秀吉に救援を求めることで島津氏を追い込もうとしたが、秀吉は両者に、戦いを禁止する。しかし、島津義久はこれに従おうとしなかったため、秀吉が島津氏の討伐に乗り出すことになり、九州に兵を進める。天正14年(1586)12月12日「戸次川の戦い」(へつぎがわのたたかい)が始まった。そこには土佐から長宗我部元親・信親親子、讃岐から仙石秀久、十河存保ら四国連合軍6000人が到着。大友義統の軍約1万人と合流し、戸次川で激突した。しかしながら、この戦いは四国軍の士気がなく、島津軍の圧勝に終わる。そして大友氏の命脈は尽きたと思われたが、天正15年1月、秀吉は九州征伐の大動員を発し、弟・秀長の軍勢が、先発していた宇喜多秀家らと合流し10万の軍勢を作り上げる。ここにきて肥前の龍造寺政家と鍋島直茂も天下の情勢を見たのか秀吉側につく。ついに同年4月17日の「根白坂の戦い」で島津氏は敗勢に追い込まれる。そして重臣の伊集院忠棟を人質として差し出し、屈服する。5月6日、義久は剃髪し、劉伯と号して5月8日、薩摩川内の泰平寺で秀吉に会い降参する。

 これ以降、義久は秀吉に従い、男の子がいなかったので、義弘の嫡男・久保を後継者にするように命じられる。文禄元年(1592)に朝鮮の役・文禄の役が勃発するも、義久は病気を理由に出陣せず、弟・義弘が出陣する。同年には部下が引き起こした梅北一揆が起こり、鎮圧にも苦労する。そして弟の歳久が秀吉に反抗的だったことなどが尾を引き、いろいろな理由をつけられ、ついには歳久が殺害されるなど苦境に陥った。四兄弟の長兄として島津氏を守る立場であったが故にか、何故か義弘の朝鮮の役参陣に際しても、またこのあとの天下分け目の「関ヶ原の戦い」に際しても、義弘からの人的、物的援助要請にもほとんど無視する態度を貫いた。藩がそれまでの戦いや藩内の争乱などで財政的にも疲弊していたからだという説もある。
その関ヶ原の戦いのあと、幸いにも徳川家康から本領を安堵されて明治維新まで命脈を保つのである。

 晩年の義久は隼人の富隈城に移り、茶道に打ち込んだという。慶長16年没。

 

 前記、義久の後継者として義弘の嫡男・久保が指名されたと書いたが、その久保は、朝鮮の役の最中、現地で病没する。そこでその弟・忠恒(のちの薩摩の守・家久)が跡を継ぐことになり、妻として久保の妻(義久の娘・亀寿)を娶る。つまり義久は後の守護・第18代当主・島津家久の姑となるのである。
(こうして書いてみても、ほんの部分部分しか書けていないが、今回はこのあたりで・・・)
 福昌寺跡墓地の島津義久の墓標





 参考文献  川口素生著 「島津一族」
       新名一仁編 「島津四兄弟の九州統一戦」
       歴史人   「薩摩島津家 最強の真実」 他





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Last updated  2019.11.26 13:42:04
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