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カテゴリ:島津一族
「島津義弘没後400年」に因む島津義弘の人脈(4) 島津歳久 天文6年(1537)歳久は島津本宗家第15代当主・貴久の三男として伊作で誕生した。母は義久・義弘と同じ雪窓夫人。仮名は又六郎、後年左衛門督を名乗り、唐名「金吾」と呼ばれる。 その生涯は波乱にとんだもので、最後は豊臣秀吉に狙われて無念の死を遂げる悲劇の人だったと言える。 天文23年(1554) 貴久が岩剣城を攻めるが、兄たちと共にこのとき歳久も初陣を飾る。(18歳)その後、弘治3年(1557)の蒲生城落城までの大隅合戦では、兄義弘とともに猛将ぶりを発揮する。永禄9年(1566) 島津氏は渋谷一族の本拠地である祁答院地方を平定するが、後にこの祁答院を歳久が治めることになる。天正8年(1580)には祁答院地方に1万8千石が加増されて、宮之城の虎居城を本拠に定める。 その後、九州制覇を目指した島津氏だったが、豊後の大友宗麟が豊臣秀吉に頼ったことから、秀吉は停船命令を出す。しかし、島津氏は秀吉の出自を嘲笑う気持ちもあって、それを拒否する。 ただ、天下の情勢は秀吉に大きく傾き、島津氏はその軍門に降る。義久は出家し、龍伯と号し秀吉と薩摩川内で面会し、許しを乞うた。しかし、歳久はその軍門に降るという時期にあらずといい、徹底抗戦を訴えた。あまつさえ秀吉が川内から大口に陣を移す途中、祁答院の西端、山崎を宿所にしたとき、秀吉の駕籠に弓矢を射かけたという。 文禄元年(1592)に文禄の役が勃発すると、歳久は中風(脳卒中の後遺症)により出陣できなかった。一説では歳久は酒好きで、それが中風の原因であったとも言われている。 ここで、もう一つ歳久に不幸なことが起こった。同じ年、島津氏の家臣・梅北国兼が一揆を起こしたのだ(梅北一揆)。国兼は朝鮮出兵への不満から肥後・佐敷を突如占拠し、一揆を呼びかけたのだ。国兼には、歳久の配下が多数味方したと言われており、秀吉は歳久に嫌疑をかけたのだ。秀吉の不興をかった歳久は兄の義久から追討されることになった。攻撃を受けた受けた自害しようとするが、中風により、それも叶わず、結局、平松まで追われたのち、自刃。ときに56歳であった。現在そこには歳久を祀る「平松神社」になっている。 島津歳久は「金吾さあ~」(金吾様)と呼ばれ、薩摩宮之城主であった。 現在は、さつま町となっているが、ここさつま町中津川にある大石神社に祀られている。 ここには「金吾様踊り」も伝わっている。 歳久の法名は「心岳良空大禅伯」 墓所は心岳寺(平松神社)など数カ所にあると言われるが、下の写真は鹿児島市の福昌寺跡墓地にある墓標。心岳という文字を見ることができる。義久や義弘などの墓標の一角にある。 歳久は日置島津家の始祖であり、日置市日吉日置に「大乗寺跡墓地」にも墓標がある。 参考資料 山本博文著 「島津義弘の賭け」 新名一仁 「島津四兄弟の九州統一戦」 KKベストセラー 「薩摩島津家 最強の真実」 wikipedia お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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