長寿院盛淳墓標 岐阜県大垣市上石津町 琳光寺 (写真はネットより借用)
島津義弘没後400年に寄せて
長寿院盛淳 天文17年(1548)~慶長5年9月15日(1600年10月21日)
畠山頼国の子として誕生。父・頼国が薩摩半島坊津に移り住みできた子だという。
盛淳は当初大乗院で仏門に入り、大乗院盛久法印の弟子となった。その後、根来寺で8年間、高野山で3年間修行したが安養院住持になって鹿児島に戻ると、還俗し奏者に抜擢される。
蒲生地頭。島津氏の九州統一で活躍をみせたが、天正14年(1586)義久の命により秀吉への使者を務めた。その後、秀吉の九州の征伐で島津氏の旗色が悪くなると和睦を主張した。
天正16年(1588)頃には義久の家老となり、石田三成と連絡をとりながら豊臣政権下の大名・島津家を安定させるべく手を尽くした。
盛淳は筆頭老中であった伊集院忠棟(幸侃)とともに太閤検地に立ち会い、三成と相談しつつ家臣団の知行配分に携わった。こんため減知や所替えを命じられた多くの家臣たちの激しい敵意の矢面に立ち国人層からは怨嗟の対象となった。盛淳は穏健派で忠棟は急進派であったため、二人の関係は悪化し義久も心配するほどだった。
後に義弘の家老となるが、文禄2年(1593)には朝鮮出役の義弘から留守中の仕置について細かく指示を受けている。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、義弘の兄・義久が中央の動きにできるだけ関与するまいという意向を示していて、義弘の元に駆けつける軍勢は少なかった。義弘の子・忠恒(家久)は岳父義久の意向に逆らうことはできず、上洛することはできなかった。
そういう中でも、義弘の要請に応じて薩摩勢が三々五々到着した。
9月7日の忠恒宛義弘書状によれば、前々日に薩摩から駆けつけた人数は、富隈方(義久)が45人、鹿児島方(忠恒)が22人、帖佐方を合わせて都合287人であった。
義弘の家老で蒲生地頭の長寿院盛淳が蒲生衆・帖佐衆70人を率いて到着したのは、義弘が大垣にいる9月30日のことであった。
長寿院の到着を知った義弘は、陣の外まで出てきて、「長寿か、一番目に到着するのは其の方と思っていた。予想通りだ」と盛淳の手をとり、大喜びであった。(井上主膳覚書)石田三成も喜んで盛淳に軍配と団扇を贈った。(新納忠元勲功記)
その厚誼に感激した盛淳は合戦当日義弘の身代わりとなって「島津兵庫頭(義弘) 死に狂いなり!」と群がる敵勢に大音声で名乗りをあげ、義弘の身代わりとなって戦死を遂げたのである。
参考資料 「島津義弘の賭け」 山本 博文著 中公文庫
「wikipedia」
「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ