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カテゴリ:島津一族
秋晴れの一日、日豊本線で姶良市帖佐に向かった。朝8時9分、鹿児島中央駅発で帖佐駅着8時35分。駅から最初の目的地である「島津義弘居館跡」まで先ず2,4kmを歩く。これを皮切りにこの日は約4時間ほぼ歩き続けたので、12,3kmは歩いた。上の写真は別府川を跨ぐ帖佐橋からの眺めである。橋を真っ直ぐ進むと目的地に到着するはずだ。 橋を渡って右に進むと現在、帖佐小学校になっている「帖佐地頭御仮屋跡」に到着。 「ここは江戸時代は地頭仮屋という役場がありました。薩摩藩では江戸時代に市町村の代わりに郷という行政区画が置かれ各郷には藩から地頭(今の市長・町長)が任命されました」(標柱) 標注の左側に見える「帖佐地区の歴史」には次のような記述がある。 帖佐という地名は、鎌倉時代の建久8年(1197)の「大隅国図田帳」に「帖佐郡」として初めて現れます。その範囲は大字平松や木津志を除く旧姶良町域が想定されます。 鎌倉時代の弘安5年(1282)に京都石清水八幡宮の神官平山了清が下向し、その後平山城を居城に約170年間平山氏が支配しました。 室町時代の享徳年間(1452~1454)には、豊州家島津氏初代の季久(すえひさ)が平山氏を攻め下し、瓜生野城(後の建昌城)を築いて帖佐を領有しました。その後、島津氏・加治木氏・祁答院氏などによる領地争いが続きましたが、天文23年(1554)~弘治3年(1557)の大隅合戦により島津氏の支配が確立しました。 文禄3年~4年(1594~1595)に行われた太閤検地の後、帖佐村の石高7864石は島津義弘に与えられました。これを受け、義弘は文禄4年に居城を栗野(湧水町)から帖佐へ移します。この時点で既に帖佐は街道に沿って町が作られ、賑わっていたと考えられます。なお、この時義弘は豊臣秀吉から鹿児島へ移ることを勧められましたが、当主である兄の義久に遠慮し、代わりに息子の忠恒を鹿児島に入れました。この時期に山田郷が別れ、その後江戸時代には鹿児島藩の外城(麓)の一つになりましたが、元文2年(1737)には重富郷が分置されました。 寛永13年(1636)当時の人口は3011人で、寛文4年(1661)当時の帖佐郷に所属する村は、餅田・三拾町・鍋倉・豊留・中津野・深見・深水・益田(増田)・寺師・住吉・長瀬(永瀬)・山田・大山・船津・甑・春花・千本・平松・脇本(脇元)・辺川の19ヶ村です。 ここ帖佐小学校の地は、帖佐郷の地頭仮屋(現在の市役所)が置かれ、政治・行政の中心地でした。一方別府川沿いの納屋町は藩の御用蔵が置かれ物流拠点として発展し、特産品の帖佐升は納屋町船で県内に広く販売されました。船の出入りでにぎわう納屋町の様子は「帖佐名所は米山薬師、前は白帆の走り船」とうたわれました。 今も残る麓の佇まい 帖佐麓(郷)に見られるように薩摩には90ヶ所(100以上との説もある)の麓があった。 1615年の「一国一城」制が敷かれると薩摩では外城(とじょう)とよぶ「麓」を置き「御仮屋」とか「地頭仮屋」を置いた。帖佐麓もその一つである。 次回はこの先の「島津義弘居館跡」を紹介します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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