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カテゴリ:男声合唱
先日のブログ「私の『希望の島』(のぞみのしま)は馬毛島」を書くに当たり曖昧な記憶を確かめようと男声合唱団・フロイデ コールとそのOB会でつくる楠声会の記録誌や記念誌を取り出した。 余談だが、フロイデ コールでは、これまで周年などの度に記録誌や記念誌を発行してきたが、それに続くOBで組織する楠声会でも記念すべき演奏会や遠征した東京のイイノホールでの「歌声は日比谷の空に」東京公演記録誌、島原市での「普賢岳災害復興祈念チャリティーコンサート」記録誌、奄美での「うるわしき南の島に歌声響く」演奏会でも記念誌を発行してきた。 下の写真は昭和60年(1985)1月13日発行の「創立三十五周年記録誌」の10ページ目。 私が昭和56年に約20年の県外での生活を終えて帰ってきてから4年を経ていて、仕事にも目鼻がついてOBの楠声会にも参加し始めた頃である。このときの記念誌に過去の「演奏旅行の記録」を残そうということで第一回目と思われる昭和25年7月の伊作高校、花田小学校から記載が始まっている。記録誌によると昭和30年7月と9月までの演奏旅行のことは演奏した学校などが全て記録された一冊のノートが発見されたことで記録誌に転載できたと書かれている。 しかし、その後のことは何らかの記録に残されていたものと、そうでない年月のところには「残念ながら不明」と書かれている。そして、下の昭和32年から昭和34年の記録も「残念ながら不明」が幾つもある。このページの最後にある昭和34年9月も不明とある。私は33年入学の37年卒業なので、当時は2年生で詳細は覚えていないが、この演奏旅行には参加していた。 それから10年後、今後は転勤もない生活でそれまで転勤や転居の度に断捨離もできていたのが終の棲家に落ち着いた今後はもうそういう機会もないということで思い切って不要なものを捨てようということになった。当然その中には鹿児島を出てから鹿児島に帰るまで転居の度にずっと一緒だった「フロイデ時代の宝箱」(楽譜やプログラムなど)や北九州混声合唱団時代のものも段ボール一個に収まっている。 そしてある日、不要な楽譜などは捨てようと選別を始めた。鹿児島を出て鹿児島に帰り、この箱を開けるまで実に33年が経過してことになる。もちろん、北九州時代に所属した男声カルテット・フォーガイズのためにフロイデ時代の楽譜を取り出して歌ったりしたので玉手箱みたいに全然開けなかったわけではない。一枚一枚丁寧に引き剥がすようにして見ていったが、当時の楽譜はガリ版印刷で紙質も悪かったこともあり、変色したり折り目から切れかかっていたり、やっと楽譜も読めるようなものもあった。 めくるうちに遂にお宝の一枚を発見! (ちょっと興奮し過ぎてオーバーかな) 記録誌に「残念ながら不明」と書かれていた「昭和34年9月(大隅・都城、宮崎)」の演奏旅行日程表と「旅行メモ」の用紙が出てきたのだ。 喜んだ私は次の練習日に当時のN会長に届けた。そして平成7年7月15日付けで会員に35周年記念誌の空白を一つ埋める形で配布されたのだった。 これを見ると、9月1日から8日まで16ヶ所で演奏をし、途中、宮崎女子高(現在もコンクールで上位入賞の常連校)と合同練習をやったり青島にピクニックに行く予定になっていたが、ピクニックはやめて、女子高生とソフトボールをやったような気がする。しかし、60年前のことではっきりは覚えていない。 笑えるのは次の「旅行メモ」である。 自己負担金 300円。 (演奏先の謝礼金でまかないきれなかったのか) 当時の私の市電の月額定期券代が310円だった。 米 3升。 (私の計算では昼の弁当も含めて22食分ということになっているので 若者一人あたり一食1,36合くらいで妥当な量か) 当時は「米穀通帳」がなければ米が買えない時代だった。 その他、マネージャーから事細かい指示が出されていてあの時代を思い出して今見ると面白い。 これを見て演奏旅行の度毎に同じようなことをしてきたのだろうと思いしばし感慨にふけることだった。 演奏旅行のみならず、記念誌などを見ると、面白いエピソードが満載なのでまた機会があれば紹介したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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こんばんは
かなり思い出深いものが見つかりましたね。 (2022.02.14 19:43:54)
エンスト新さんへ
もうだいぶ前の発見でしたが、私の自慢に一つです。 (2022.02.14 20:26:58)
33年間の 空白の時代も 楽譜を捨てなくて 大事に 段ボウル箱に 取ってあったのですね。コーラスを これほど長く続けられたことは 素晴らしい思い出ですね。人生を語る事が出来ますね。そして 仲間が 居るのですから 素晴らしいです。
(2022.02.14 21:17:00)
クマタツさんお晩でございます!
当時の事、曖昧な記憶でも思い返すのは楽しいですよね? お米を三升持って演奏旅行へ旅立たれた・・・のはともかく? 三升のお米はさぞかし重たかったことと思います(^_^;) (2022.02.14 21:36:30)
蕗さん8256さんへ
コーラスの練習も通常は毎週日曜日にあったものが、コロナ禍で月2回になり、現在は先の見えない休止です。 こういう時に、たまたま古い記録などを引っ張り出して見ることができて、昔のことを思い出しています。心配なのはこのような状態に陥ってしまったコーラスがどこまで復活できるかということです。年輩者の多い合唱団にとっては死活問題です。 (2022.02.14 21:46:44)
かずまる@さんへ
米は重かったのでしょうが、多分リュックに入れて担いで行ったのだと思います。あの頃は、日本がまだ高度成長に入る前で贅沢は出来ず、演奏旅行の間、自分たちで煮炊きをしていました。昼用の弁当もつくっていました。 学校の家庭科室や給食室を使わせていただいたように思います。 丼ご飯に丼のおかずでおかわりもできて、大食漢の私は腹いっぱいたべたのを覚えています。 (2022.02.14 21:53:40)
こんばんわ、、^^。
お久しぶりですね、、^^。 60年前、、 楽しい青春時代の想い出、、 お米をご持参なさって、、 まだ、、生活が苦しかった時代ですね、、 必死に生きた時代のように感じます、、 大切な記憶、、こみ上げてくる懐かしさ、、 しばしの、、タイムスリップね、、 いいですね、、^^。 雪に埋もれてますよ、、ハハハ(笑) 寒さ厳しい、、北の空より、、^^。 (2022.02.14 22:01:13)
こんばんは。貴重なものが出てきたようですね。断捨離をされているんですね。昔の貴重なものが出てくるようで、断捨離もストップですね。良く調べて断捨離をしてください。大切なものが多いのですよ。大切に保管してください。
(2022.02.14 22:42:51)
ワ~なんてこんなに昔肩のものを丁寧に保存されて。これは何処かのアーカイブスとしてすべて保存しておきたいものですね。しかし長いこと合唱に加わって活動なさって、なんと素晴らしい人生でしょう。
最初の挿絵もとってもいいですね。若さが眩しいですよ。 そして昔の暮らしを思い出しましたが、それらがとってもキラキラ光って感じられましたよ。 (2022.02.15 06:35:26)
北のフェニックスさんへ
私への感想を詩的に表現していただきありがとうございます。 もう今からは戻れない青春の1ページは、写真のように次々に移り変わっていきます。 (2022.02.15 08:31:35)
木昌1777さんへ
いつも断捨離をしようと思いながら、いざとなると進まないものです。 自分には宝物でも子どもたちにとっては、邪魔なものにしか見えないようなものを先に始末しなくてはいけないのですが、自分にまだいくらかでも元気があるとまだまだと思って決断がつきません。(苦笑) (2022.02.15 08:36:29)
ローズコーンさんへ
出てきた演奏旅行の日程表などを見て私も思わず「やったー」と思ったのを覚えています。そして日程に驚いたり、メモに笑ったり若かったこそできたことです。 歌うのは好きだった私ですが、男声合唱を始めたのは遅く大学1年の秋のことですでにコンクールは終わった後でした。その後は卒業まで歌うことができました。3年半歌ったことが曲がりなりにも今まで歌えることにつながっています。 (2022.02.15 08:54:45)
本当にお疲れ様でした。いかがでしたか。
(2022.02.15 20:15:15)
人間辛抱さんへ
今をさる60年前のことですから若さで乗り切りました。 (2022.02.15 20:35:03)
おはようございます。
水産学部より「かごしま丸」にて出港?練習船に乗って行かれたのですか? 名瀬市民合唱団時代、和光園の夏祭りの舞台によんでいただきました。懐かしい地名がいっぱいです。 渉外さんのメモ書きがいいですね。 「都城は僕の縄張り」「天下の悪路」「陸の孤島」 大隅地方は疎いのですが、志布志・内之浦あたりの道路事情はまだまだだったのでしょうね。 ピクニック! 学生時代「合同ピクニック」という行事があり、フロイデの皆さんと吉野公園・平川動物園に行った記憶が。 お弁当作っておしゃれして…懐かしい(^^)/ (2022.02.16 09:02:00)
kopanda06さんへ
こういう時期に交通事故とは被害者も加害者も警察官も大変ですね。 演奏旅行は遠い昔の話なので楽しかったことしか思い出しません。 (2022.02.16 10:49:07)
yokota115さんへ
昭和32年3月に水産学部の練習船「鹿児島丸」で奄美大島演奏旅行に行ったのは先輩たちです。水産学部長の前で歌ってやっと許可が出たという記録が残っています。 私たちが楠声会で行ったのは、ずっと後のことです。 その記念誌に書いた拙文を近々転載します。 フロイデとの「合同ピクニック」なんて当時のフロメンが羨ましいです。 私たちの時代はまだそういう時代ではなっかのでしょうか、いい思いをしたことはありませんでした。 (2022.02.16 11:52:36)
旅行に行くにもお米持参の時代があったというのは小耳にはさんだことがあります。
演奏旅行でもそうだったのですね。 300円とお米3升が自己負担、出発前にそれだけ収めておくのですね。 草すれば8日間声明は保証するのでゲル(Geldお金のことですよね)不要。うんうん、学生にとってはそれ大事ですよね。 最後のラクガキにをにやにやしながら読んでしまいました。 僕の縄張りで下手な真似はしないでくださいって。。。本音ですよね、きっと。 とっても真面目で適度にユーモアと遊び心のある学生さんたち(若者らしく1食1.36合ものお米を食べる)の演奏旅行の様子が目に浮かびます。 メモが見つかってよかったですね。 ところで、昨日のわたしの日記に書いた平家女護の島で鬼界島(現在の喜界島とも硫黄島とも言われているそうです)の海女千鳥の言葉。 初めて会う俊寛への千鳥挨拶が「りんによぎゃってくれめせ」。ほかにはむぞうか(可愛い)なんて言葉も出てくるので、近松門左衛門はいくらかは薩摩の言葉を勉強しのかなとは思います。 でも、りんによぎゃって。。。はねえ。 何かを聞き間違えたのでしょうか? 笑う場面ではないのに吹きそうになって困りました。 (2022.02.16 13:43:48)
mamatamさんへ
旅行メモやラクガキを書いた渉外の彼は、後に主将になりました。 同期生ですが、私が北九州に行って門司まで演奏会を聞きに行った時に工学部出身の彼がKB製鋼の合唱団で歌っているのを見て、楽屋に会いに行きました。その後、鹿児島の演奏会にも来ましたが、亡くなったと聞きました。 同期生の死は寂しいものです。 かごっま弁を舞台で見られた(聞かれた)のですね。 「むぞか」を使うこともなくなってきました。 そいどん、今もかごっまにはむぞかしやらよかおごんしがずんばいおいやんど。 (理解不能な場合にはご主人に通訳してもらってください) (2022.02.16 16:05:17)
クマタツ1847さんへ
国分市と鹿児島市は少し言葉が違うでしょうか。 国分市ってもう言わないんでした、霧島市です。 むぞかではなくむぜって言ってましたね。 あと、ずんばいってたくさんっていう意味ですよね。 それはずばとかずばちって言ってましたよ。 帰省して帰るっていう時、おばあちゃんがいろんなものを山のように用意してくれるので、夫が「ずばちはいらんで」ってよく言ってました。 こうして思い出話をすると、あ、この人はもういないんだって思うことが増えてきました。 少し前はそれが親だったり上の世代だったりしましたが、最近は友ということが増えてきて、ホント、寂しいものですよね。 (2022.02.16 16:37:50)
mamatamさんへ
お尋ねありがとうございます。 鹿児島弁も地方によって若干アクセントも言葉も違うところもあります。 私が知る範囲では薩摩半島の南の方の頴娃地方はアクセントが全然と言っていいほどいいほど違いますし。都城に近い志布志あたりもまた違います。 北薩も違う部分もあります。鹿児島市と霧島は違うと感じたことはありません。 ご主人がお母様に「ずばちはいらんで」と言われたのは「ずばちゃいらんで」と言われたのでしょう。「ずばっ」は「ずんばい」とも言いますから鹿児島弁にも同じ意味を持った言葉が、ずんばいあります。(笑) (2022.02.16 17:44:58) |