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カテゴリ:Tくんの物語
![]() ![]() 八幡製鐵所のことにこだわったのは、M安全(株)にとって大きな取引先であり、当時から八幡製鐵所に安全靴(上の写真にある、爪先に鋼板が入ったもので種類はたくさんある)を独占して納める納入業者だったからだ。八幡製鐵所への納入靴は特注で通常「ゥ0G]と呼んでいたが、革はウグイス色だった。もちろんその他の安全用品も数多く納めていた。 新入社員の私を入れても当時の支店の社員数は15名くらいだった。 支店長、次長、営業4人、業務2人、経理2人、倉庫1人、配送2人という布陣だったと思う。 私の初めての仕事は「業務係」である。支店長から「将来、支店の経理の仕事をやってもらうが、先ずは商品やお得意さんを覚えるように」ということで仕入れや電話応対、暇なときには倉庫に入って商品の勉強もすることになった。私自身、人間がいい加減なこともあり、銀行から全然雰囲気の違う職種・仕事であったが特別な違和感は無く、うまく溶け込めたように思う。 会社は昭和28年創業の若い企業だったが安全靴を日本で一番最初に作ったこともあり、当時から安全靴のシェアは日本一であり、安全靴の生産工場も持っていた。その他に作業服の縫製工場もあった。 その他、ヘルメット(後に自前の工場を持ち生産するようになる)、防塵マスク、防毒マスク、防塵メガネ、フェースシールド、耳栓、各種手袋、安全標識なだなどあらゆる安全用品を扱い、それぞれの有名メーカーの代理店として販売していた。それだけに商品知識を得ることや仕入れも多岐に渡るので、仕入先との交渉など大変だったが、仕事を楽しむことができた。 得意先は八幡製鐵所を始め、小倉の住友金属工業、それらの協力企業、戸畑、若松、門司の工場群、筑豊の炭鉱やセメント会社など工場と名のつく工場のほとんどと取引があった。しかし当時のことで重工業が主体であり、またそこが多くの安全衛生保護具を必要としていた時代でもあった。 九州支店には、後に九州支社も併設されるのだが、九州支店が日本を代表する重工業のお得意さんが多かったことや、当時九州にあった福岡出張所、長崎出張所、大牟田出張所、大分出張所のまとめ役の仕事もあって、常務取締役が支店長であった。当時は九州も含めて全国の販売網は50ヶ所くらいだった。 現在は180ヶ所になっている。 今日は固い話になってしまった。 ➇ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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いつもコメントを頂きまして、
誠にありがとうございます。 テーマから外れてしまいますが、 前身は日本バレーボール界の名門の一つであった 新日本製鉄堺製作所バレーボール部です。 (2022.07.12 20:07:28)
T君 転職して 新しい職場が 合ってるようですね。これからが 楽しみな会社ですね。
(2022.07.12 20:55:11)
こんばんは。銀行を最後まで勤務されたとばかり思っていました。安全靴屋にも勤務されたんですね。自分も横浜に本社がある「みどり安全」という会社に勤務していましたので。安全靴は女だてらに良く知っています。建設会社東京の大手会社とほとんど取り引きがありました。自分は店内の販売から営業事務、経理事務をしていました。凄く懐かしく、色んなことを思い出しました。
(2022.07.12 22:06:07)
蕗さん8256さんへ
その後、取り扱い商品も増えて、時流にも乗って大きく成長しました。 最近も後輩と一緒に食事をする機会がありましたが、益々発展しているようです。 (2022.07.13 06:30:52)
おはようございます。
子供の頃、社宅の玄関には父の安全靴とヘルメットがありました。 靴の先には鉄?が入っていて、面白半分に履いたらその重いこと重いこと! 「えんか服」と言っていた作業着、「えんか」とはどういう意味だったのでしょう。 アイロンかけは私の仕事でしたが、ごわごわして苦手でした(>_<) 懐かしい写真をありがとうございます。 主人は会社に置いていますが、事故対応の時には必ず履いているはずです。 支えていただいて感謝です。 「人間がいい加減」と書いてらっしゃいますね。 年長者の方に失礼な言い方ですが、銀行から安全産業会社…すごい才能だと思います。 (2022.07.13 07:12:39)
yokota115さんへ
お父様のお勤めの会社には大変お世話になりました。 安全靴とかヘルメットは当時の我が社のモノに間違いありませんが、円管服(正式には「えんかん服」です)は他社さんが納入されていたと思います。 円管服は煙管服とか煙間服とか言う漢字も当てるようで、要するに筒状でつながっている服という意味だと思います。 ご主人の会社には福岡支店から一括納入でした。一時、ご主人の会社から福岡支店に出向されてそのまま定年後もお勤めになった方もおられたように記憶しています。 家族もいて、いわば背水の陣で転職しましたが、たまたま運が良くて最後は鹿児島に帰ってこれて良かったと思っています。そのおかげで昔の仲間と一緒に歌うこともできていますし、高校の同期生とも楽しい付き合いができていますから・・・。 (2022.07.13 11:34:13)
かずまる@さんへ
ありがとうございます。 この歳になると、同期生でも「自叙伝」的なモノを書く人間もいて、私も勧められて恥を忍びながら書いています。(苦笑) まだまだこれからです。 まあ、少しづつですが、書いていきたいと思っています。 (2022.07.13 11:38:01)
いえいえ、硬い話だけでなく、とっても興味が湧きましたよ。九州で一番大活躍の地帯での、その重工業を支えるお仕事ですからね。
それにしても銀行からの転職よく決意なさいましたね。そしてなんと人間らしい人の安全を守るものを扱うそのお仕事、どんなにやりがいがあったことでしょうね。その行き先は経理を扱うことに事にもつながり、もってこいの人材だったことでしょう。 日本のそんな仕事が栄えた時代の陰の功労者でもありますね。そして今に栄えて繋がっている。…素晴らしい!。 大変面白く読ませていただきました。 (2022.07.14 06:44:29)
当時は隙間産業にうまく取り組んだとか、既存の大企業が目を付けなかった分野であるなど週刊誌などでも報道されるようになり、安全が大事というような時流にも乗って次第に成長していったように思います。
私も初めは使命感など持っていませんでしたが、途中からは面白くなって35年位仕事をすることができました。全てに感謝です。 (2022.07.14 08:17:43)
おはようございます。
八幡製鉄が富士製鉄と合併し新日本製鉄に住友金属と合併し新日鉄住金が 現在の会社遍歴があるのですね M安全は八幡製鉄に安全靴を収めていた会社ですね 爪先に銅板が入った靴を独占で納めていたのですね 安全靴は日本一の会社ですね ヘルメットや防塵マスク、防毒マスク、防塵メガネ、フェースシールド、耳栓、各種手袋、安全標識等の安全商品の会社はやりがいがあったでしょうね (2022.07.15 06:12:58)
楓0601さんへ
職場環境もお得意さんも良くて楽しく仕事をすることができました。 私が販売業務から退いてから20年くらい経ちましたから、工場関係もいい意味での合理化も進み、更に働きやすくなっているのではないでしょうか。 (2022.07.15 06:34:30)
いつもコメントを頂きまして、
誠にありがとうございます。 前身は日本サッカーリーグ(JSL)二部の常連で、 茨城県鹿嶋市をホームタウンとした 住友金属工業(現在・日本製鉄)鹿島製作所蹴球団です。 (2022.07.26 20:51:07)
いつもコメントを頂きまして、
誠にありがとうございます。 テーマから外れてしまいますが、 千葉市中央区をホームタウンに、 バレーボールVリーグ男子2部に所属している 千葉セルバのホームアリーナとして 使用されています。 (2022.08.02 20:15:24) |