🔷日航機事故に付いて
32年前の、8月12日: 1985年の事です、
この1985年は、阪神タイガースが、何十年ぶりかで
優勝した年で、吉田監督でしたね。
この1985年は、俺が、佛教大学に入学した一年でもあります。私は、大学に全くなじめずに、この夏休みごろは、遊んでばかりいて、学校の授業に出らずに、先行きに不安があるころでした、8月12日に、京都⇒大阪に移動し、フェリーで、九州・飯塚に帰りました。まだ、浦田駅はなく、
鯰田駅で降りて、てくてく歩いて帰りました。
そして、夕方、父に連れられて、父親の方の実家、=幸袋、ちょうど今に、観光地になった、「伊藤伝右衛門邸」のそばです、今は、そのおうちもありませんが=父方のおばあちゃん家では、ちらしずしがよく出ていました。
それを食べていると、ニュース速報で、
日航機が、レーダーがから消える、というものでした。
そして、家に帰ってきて、ニュースを、夜通しみていました。
ずーっと、寝ずに、搭乗者名簿で、この飛行機に乗っていた方の名前が、読み上げられていました。--怖かったです、なぜか。生まれて初めての大きな事故ですし、
ずーっと徹夜をしてみていました。
そして、昼頃に、生存者が4人見つかった、という事で、川上さんっていう、小学6年生が、ヘリコプターの救助隊に引き上げられる映像をみました。私と同じ世代とか、年輩の方はご存知ですね。この場面。あれから、32年も経つんですね。不慮の事故で突然亡くなるってのは、気の毒ですが、生かされているこの命、これに感謝をして、最後まで、前向きに、せいいっぱい生き抜こうと思います。 独自の流儀にて:
坂本九さんが、この事故で無くなりましたね、他には、稲川淳二さんや、明石家さんまさん、逸見さんも、この便に乗る予定だったのに予定が変更になった別の便になったといいます。ずっと徹夜をして、翌日まで見ていたので、このニュースというか事故は、忘れられません。
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最終更新日
2017年08月13日 09時09分40秒
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