(承前)
本日は賢島・大王崎・のとやま往復銀輪散歩です。
賢島を出発。踏切を渡って右に国道167号を走り、鵜方駅の少し手前、文化公園前で右折し近鉄線を越えて国道260号に出て、これをひたすら南下する。
(英虞湾・神明漁港のある入江。 左奥にえびす島と賢島大橋が見えている。)
(国道から少し西に入って、神明漁港側から南東方向を見る。)
260号を7~8km行くと道が分岐し、左が大王崎への道、右を直進すると和具・御座方面である。歓迎アーチが出迎えてくれる。
(大王町歓迎アーチ)
歓迎アーチを潜って暫く行くと県道515号に突き当る。これを左に行くと急な下り坂となる。大王崎・波切(なぎり)港に向って一気に下る。帰りの登りが頭をかすめる(笑)。
大王町は「絵描きの町」とのことだが、先ず迎えてくれたのは「汗かき」のお地蔵さんでありました。
(汗かき地蔵入口・愛車のトレンクル)
(汗かき地蔵)
鎌倉時代の頃、漁をしていた漁師惣左衛門の網に同じ大石が三度も掛かってきたので不思議に思い、持ち帰り浜辺に置いておきました。この石に無礼を働く者がいると、必ずその者に悪いことが起こるのでした。そしてこの石は後になって尊象の形へと変わっていったという伝説のお地蔵様です。この地蔵尊には不思議な力が宿っています。それは世の中に起こる良い出来事悪い出来事を汗を流し、その色によって告げるのです。吉事が起こるときには喜んで白い汗をかき、反対に悪いことが起きるときには人々に代わって苦しみ、黒い汗を流すのです。江戸時代、志摩の殿様が大病に罹り、この地蔵尊を念ずると忽ち全快しました。以来信仰はますます広まり、また村民にも多くの霊験を授けました。今でも吉凶があるたびに汗をかかれます。2月24日の初縁日には町中にて盛大なお祭りが行われています。(現地説明板より)
(思案地蔵)
このお地蔵様は変わったしぐさをしていますが、実は悲劇が秘められた地蔵菩薩なのです。それは天保元年(1830)に起こった波切騒動と呼ばれるもので、大王島の沖で、幕府の御城米を積んだ、千石船が難破したことから端を発しました。翌日、漁に出た村人が沈んだ船を発見し積荷の米を持ち帰りました。しばらくしてその事件を捜査に来た幕府の役人達は夜更けに覆面をして村に潜入したので、村人達は盗賊と間違えて役人達を退治してしまいました。そうしたことで幕府は庄屋、村人達14人を処刑してしまいました。事を哀れんだ村の和尚が、ほとぼりの冷めた頃、地蔵尊を彫り、この騒動の犠牲者を弔ったものと伝えられています。(同上)
(薬師堂)
創始は不詳であるが、波切村民の氏仏として古くより村人達の仏教信仰の根本霊場であります。本尊の薬師如来像は、鎌倉期に造られたと伝えられており、同時代の特徴を備えた立派な文化財であります。堂内に向かって右側に安置された観音浄土補陀落山像には、那智の信仰を受けたものであると見られる、熊野権現の神紋である三足の金烏がはいっており、左側にはそれに相応して、西国三十三所の各観音像が祀られています。入口の鰐口鏡には関係者と万治2年の銘が刻されています。(同上)
(桂昌禅寺)
汗かき地蔵と向き合うようにしてある桂昌禅寺を覗いていると、地元の小学校3年生だという集団が通りかかりました。先生に引率されての社会見学だとか。その後からやって来たおばあちゃんが大慈寺を教えて下さったので立ち寄ることに。アジサイの寺として知られているらしいが、未だ少し季節が早く花は咲いていない。
(大慈寺)
大慈寺から元の道に戻って少し行くと、波切漁港に出た。対岸に波切神社の鳥居が見える。右に坂道を登って行くと大王埼灯台への狭い坂道に出る。眼下に見えるのが宝門の浜で、奥の出っ張りの処が船頭の浜と言うそうな。
狭い坂道にはみやげもの店が並んでいる。入口の処で店のお姐さんに声を掛けられ話をしている内に気が付けばスルメだの海苔だのを買っているのでありました(笑)。
(宝門の浜)
(大王埼灯台)
大王埼灯台は熊野灘と遠州灘を二分する、志摩半島の東南端にある灯台。昭和2年5月に着工、同年10月に完成、点灯している。灯台の狭い、80段余の螺旋階段を上ってデッキに出ると大パノラマの絶景が広がる。
(大王埼灯台からの眺め・西方向。奥は和具。)
(大王埼灯台からの眺め・南方向。熊野灘。)
(大王埼灯台からの眺め・須場の浜・東方向。奥は遠州灘。)
灯台から須場の浜を通って仙遊寺への道を下って行くと、女性が絵を描いて居られました。声を掛けると、大阪からグループで写生に来られたとのこと。やはり絵描きの町なのだ。ひろろさんの船の絵なども思い出される。
ここで、字数制限オーバー。続きは明日に。(つづく)