本日は八尾市の高安古墳群「千塚」の一部を巡って来ました。
明日は、喫茶ナナでの第4回目の万葉の会ですが、その講話のための資料を先日銀輪散歩のついでに届けた処、ナナの経営者、小〇さんが「Yaomania」という八尾市観光協会が発行している小冊子を下さいました。それに、「高安古墳群‘‘千塚’’をめぐる」という記事があり、興味を持ったからでありました。小生の高校1年の時のクラスメイトで割に親しくしていた男生徒に〇〇君というのがいたが、思い違いでなければ、彼は八尾市の千塚という地区から通って来ていたかと思う。彼とは卒業以来会っていないので、懐かしい。お元気にされているのだろうか。
<追記・修正2022年9月1日午前0時40分>
上記の〇〇君という部分を、原文では同君の苗字をそのまま書いていました。2022年8月31日深夜に、同君の親族というお方から、当該部分は削除していただきたいというコメントを頂戴した。親しかった同級生ということで、苗字をそのまま書いてしまったが、ご本人はどうあれ、ご親族のお方にご不快を与えてしまったようなので、伏字とさせていただきました。
さて、その記事に「抜塚」という古墳の写真が掲載されていて、ちょっと面白い風景であったので、実物を見てみたいと思った、ということと、日本史の授業で習った好太王碑の複製が八尾市楽音寺にある大阪経済法科大学のキャンパス内に建てられているというのを、同記事に添えられた地図の記載から知った、ということによるもので、小生の興味なるものは、少しも学問的なそれではなく、ブログ・ネタに丁度よいかなという程度のものなのでありました(笑)。
先ず、心合寺山(しおんじやま)古墳の前に出て、其処から八尾農免農道を辿って、ひたすら坂道を上る。心合寺山古墳は何度も取り上げていますので今回は省略です。
大阪経済法科大学の構内の好太王碑へと向かう。
(好太王碑<複製>)
(同上)<参考>好太王碑・Wikipedia
(同上・説明副碑)
古代史では有名なこの碑のレプリカがこんな身近な場所にあるとは迂闊にも存じ上げぬことでした。それも15年も前から此処にあるのですな。
好太王碑の前の坂を下り、大学構内を北に抜けて熊野神社に立ち寄る。
(楽音寺熊野神社)
(同上・説明碑)
熊野神社から更に坂を下って、大学の正門前に回り、構内を抜けて、先程の好太王碑の場所に戻ろうとしたら、この区域は自転車乗り入れ禁止だと言われ、再び、熊野神社経由の来た道を辿って碑の方へと引き返しました。正門を入った処にある花岡山遺跡の石碑だけを撮影させて戴きました。
(大阪経済法科大学)
(花岡山遺跡石碑<複製>)<参考>花岡山遺跡石碑
好太王碑から少し坂を上った処にバス停がある。近くの自販機でお茶を買って水分補給。大学のガードマンさんと暫し言葉を交わす。この大学は開校してもう40年になるそうだ。大学を出て、再び農免道路の坂を上る。只々上る。
(八尾農免農道の高みからの眺め。右寄り手前の白い建物は大阪経済法科大)
<参考>農免農道とは何かについてはコチラの農免農道の項をご覧下さい。
(八尾農免農道の上り坂は更に続く)
漸く一番高い地点まで来ました。ここからは下ったり、上ったりしつつも全体としては下りにて、楽々走行です。
(八尾農免農道・ここからは概ね下り。ちょっとしたスカイラインである。)
途中の玉祖神社は別途記事にすることとし、先へ。
目指す「抜塚」は来迎寺の近くにあるようなので、その寺を目指す。
それらしき寺を発見。行ってみると、果たして来迎寺でありました。
(来迎寺)
(同上・説明碑)
抜塚古墳は来迎寺の墓地の中にありました。古墳の玄室が抜けてしまってトンネルのようになっている。ちょっと面白い風景である。
(大窪・山畑7号墳<通称・抜塚>)
(同上・南側から)
(大窪・山畑8号墳)
7号墳は玄室が抜けてしまっているが、隣の8号墳は玄室が土嚢のようなもので封鎖されている。玄室を塞ぐ石と死者を安置する玄室については、古事記のイザナギ、イザナミの神話のモチーフになっている、と上述の冊子には記されていました。死んだイザナミが腐敗して恐ろしい姿になっていたのが、黄泉の国であるが、これが古墳の玄室(石室)、それを見て逃げ帰って来たイザナギが黄泉の国に通じる道を塞いだ大石が、古墳の玄室への通路を塞ぐ閉塞石、古墳への入口付近の坂が黄泉比良坂、という訳である。
(8号付近から大阪平野を望む。)
取り敢えず、本日はここまでとします。続きは明日に。(つづく)